11/28 若い人のための日曜日の聖書 待降節第一主日  ルカ 21:25-28, 34-36

10月23日朝日を浴びて

皆様、お久しぶりです。

30日の黙想をはさんで、6週間のお休みをいただいてしまいました。

先週からこのささやかなエッセイを再開しようと思えばできたのですが・・・実際にはできませんでした。

エゼキエル書の3章に、主の栄光の幻によって預言者とされたエゼキエルが、「ぼう然として7日間・・・とどまっていた」とありますが、まさに黙想明けの10日ほどは、ぼう然としていました。

30日の間、毎年の八日間の黙想と同じように沈黙、TV、新聞、ネットは不可だった上に、聖書と霊操の指定された部分を読むことだけしか許されなかったからかもしれません。

30日間まったく楽器に手を触れないというのも、毎日聖書以外の本を読まないというのも、物心ついてから初めての経験でした。

この点では、いかに今までやってきた八日間の霊操が甘かったかも痛感されました。

さらに、いただいた恵みがあまりに大きく、どのようにこれを実生活の中で生きていったらよいのか、という問題にも直面しました。

「黙想会の余韻」という美しい表現がありますが、仕事をしていても心ここにあらず、TVを見る気にもFacebookを開ける気にもなれず、食事を普通の速度ですると胃が痛くなり・・・と、余韻というよりは「後遺症」のようでした。

悪い意味で言っているのではありません。

私にとって、それほど大きな体験だったということです。

恵みの内容は具体的にはとても書ききれませんが、一言で要約するなら、「そこそこの修道生活でいいや」と思っていたことが大間違いで、日々真剣に、呼んでいただいた修道生活を生きなくてはならない、とお腹の底から思った、ということです。

できるかどうか、自分との戦いはこれからです。

 

「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい」と今回の福音箇所でイエス様がおっしゃいます。

 

毎年、待降節第一主日には、いずれかの福音書の世の終わりに関するイエス様の言葉が読まれ、「だから目覚めていなさい」と結ばれます。

「放縦や深酒」は、実際にすることがありませんが、形を変えて修道生活の中に何か悪習慣が潜んでいないと言えません。また、規則正しい生活、だれにも後ろ指を指されない生活を送りながら、利己的に生きることは不可能ではありませんから。

「生活の煩いで、心が鈍く」なることは大いにあります。

ありうる未来を想定してできる範囲で計画的に生きることは大切でしょうが、過度の心配は、神様を信頼していないことに繋がります。

 

待降節は、イエス様のご降誕を待ち受ける季節。

身籠られたマリア様とともに救い主が呱々の声をあげる時を待ちながら、神様だけを見つめて生きていきたいと思っています。

※画像は、30日間、黙想の家の窓から眺めていたヒマラヤ杉に絡んだ蔦。30日でこの蔦は変化したように、私も変化させていただきました。

 

≪聖書箇所≫ ルカ 21:25-28, 34-36

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。
放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」

11月5日小春日和の午後

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