3/27 若い人のための日曜日の聖書 四旬節第4主日 ルカ 15:1-3, 11-32

毎年、一番初めに咲く幼稚園の桜

中高生に教えていたころ、今回の福音箇所、有名な「放蕩息子」を取り上げると、多くの生徒から言われました。

「真面目にしていたお兄さんがかわいそう」「お父さんは甘すぎる」

 

そこで「あなたたちはどっちなの、お兄さん?弟?」と尋ねると・・・

 

面白いことに、真面目な生徒はもちろんのこと、たいして真面目でない(と教師の目には映っている)生徒まで、当たり前という顔で「お兄さん」と答えます。兄の生き方は常識的で、私たちは知らず知らずのうちにこの「デフォルト」が身についているのでしょう。

実は、私自身も長い間、「自分は兄だ」と思ってきました。でもこのところ、「いやいや、私は弟だ」と思うようになりました。それも、この物語の前半の弟です。

放蕩はしませんが、神様に甘えて、ずいぶん自分中心に生きています。この自己中心性が、世界を揺るがすような権力をもっていなくて、幸いだと言わざるをえません。それでも、自己中心であり、神様を中心にしていないことは同じ。あらためて、後半の弟になって、パンではなくパンの背後にある父の慈しみに信頼して回心の恵みを願いたいと思います。神様のあわれみと忍耐深さを、祝宴のテーブルでもっともっと味わえるように。

 

≪聖書箇所≫ ルカ 15:1-3, 11-32

(そのとき、)徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。
「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。