彼らが土地の産物を食べ始めたその日以来、マナは絶え、イスラエルの人々に、もはやマナはなくなった。彼らは、その年にカナンの土地で取れた収穫物を食べた。(ヨシュア5:12)
ロシアのウクライナ侵攻から4か月近く経ち、食糧危機の深刻さが心配されている今日この頃、6年半ぶりに、WTO閣僚会議が共同声明を出したというニュースを耳にして、ふと、この聖句が浮かんできました。
どの民族にせよ、その民族が農耕民族であるか狩猟民族であるかというのには、諸説あるのでしょうが、聖書に登場するメソポタミアとエジプトは、日本人の私たちと同じく農耕民族のようです。
だから、定住すればそこに種を蒔くのが当たり前で、それを収穫して食べる。
しかし、世界はいつの間にか、一番うまく栽培できる(収穫量が多く、コストがかからない)ところで栽培し、それをわざわざ移動させて食べる、という分業制の生活様式になってしまいました。私自身にしても、「国産」を食べているのはお米と、修道院のわずかな畑で時々採れる野菜類くらいで、そのお米にしても、産地から修道院のお台所までは輸入したガソリンで運んでもらっています。
世界が平和であったら、これは危険かもしれない、という当たり前のことに気づかなかったかもしれません。分業制が平和を前提とするなら、それ自体は悪いことではないのでしょうが、何か起これば、食糧の確保自体が、政治の駆け引きの道具となります。
「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」
イエス様の力強いみことばは、このような今日の私たちに何を命じていらっしゃるのでしょう。
途方にくれる弟子たちに向かって、イエス様は人々を羊の群れのようにグループで座らせるよう命じ、そこにあるだけのものを手に取って、父である天の神様に向かって、賛美の祈りを唱えます。イエス様は、きっとこんなふうに、神様を賛美されたのでしょう。
「この五つのパンと二匹の魚ゆえに、あなたをたたえます」。
食べ物は、お金を払って購入するものでなく、みなで分かち合うために恵みとして私たちに与えられているもの、と弟子たちに教えるかのように。
どうか、私たちにも、食べ物が恵みであることをもっと深く感じさせてください。そして、これを取引を超えて駆け引きの道具をしようとしている人々をも目覚めさせてください。
≪聖書箇所≫ ルカ 9:11b-17
(そのとき、イエスは群衆に)神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。