2017年6/11 若い人のための日曜日の聖書  三位一体の主日  ヨハネ 3:16-18  

昔、上智大の神学部にいっていたある神学生(将来、司祭になる人のこと)から面白い話を聞きました。

三位一体論の口述試験を受けると、どのように答えても教授陣から「それは異端です」と言われてしまう。

それほど三位一体という教義を口で説明することは難しい。

 

中高生に宗教の授業をしていた時、私は内容はともかく「三位一体」という言葉は避けていました。

でも、世界史の教科書に出てくるので、時折質問されることがありました。

高校の世界史の教科書というのは歴史の上澄みだけをすくっているのですから、その中にアリウス派、アタナシウス派の論争と共に出てくる、ということは、考えてみれば、当時の社会的・政治的動きに、「三位一体」が大いに関係していたということです。

それでも、「三位一体」という固い言葉は、宗教の時間に大切にしたいこと、伝えたいことの順位として、私の中で高くはありませんでした。

 

ユダヤの素朴な人たちの間で生まれたキリスト教は、やがて西欧世界に入ることで、決定的な方向性を取ることになりました。

「みことばlogos」であるイエス・キリストを「論理logos」で理解することが主流となったのです。

一口で言うなら「とても難しい宗教になって、お勉強しないと洗礼が受けられない」ということです。

(もちろん、幼児洗礼の場合、お勉強は後からになりますし、障害などで知的理解が困難な場合には免除されます)。

 

なんかヘンだと思いませんか。

どのように知的に理解したとしても、それが信仰に繋がるわけではありません。

それよりも、今回の福音箇所のように、「神様が私たちを深く愛し、私たちの救いを望み、そのために愛するご自分の子まで私たちに差し出してくださった」この愛を感じ取り、これに応えて生きていこう、と決心するのが信仰です。

「裁かれる」とは厳しい言葉に聞こえるかもしれませんが、地獄に落とされるというより、「神様を知らない、神様にたよれない寂しい状態」と私は思っています。

教会が福音宣教を大切にしてきているのはそのためです。

おせっかい、と思われるかもしれませんが、「神さまを知らない」人を少しでも減らしたいのです。

ですから、人生のどこかでカトリック学校と関わった、または今も関わり続けている皆さんは、決して裁かれません。

私は、論理的に説明できませんが、そう信じています。(Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ヨハネ 3:16-18

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。