昨日(7/8)は、図らずも正午より少し前にTVを点けたら、そのまま消せなくなってしまいました。政治家としての評価や支持するしないは別として、「こんなことが日本で」という驚きと、安倍氏の「心肺停止からの回復の兆し」が報道されないかしらという期待から、結果として繰り返し繰り返し同じ動画を見るはめになりました。
とうとう、「…衝撃的な事件で感情移入が起きやすい。不快と感じたらその場で視聴をやめる勇気を」というSNSの記事に行き当たり、決心してTVを止めました。自分の見方が、まさに、興味本位と不安からの一種の逃避行為のように思えたからです。「見る」という行為からの情報の濃厚さを体験しました。
「見る」には様々な「目」とレベルがあります。
さて、今回の福音箇所の、半殺しにされた旅人を見た3人。
3人とも確かに見たのです。祭司もレビ人も、目に入らなかった、気づかなかったわけではありません。見たうえで、サマリア人とは異なる判断をしたのです。
「もう死んでいるかもしれない」「うっかり死者に触れて汚れたくない」「先を急いでいる」。
それで、祭司もレビ人も、見ないふりをして通り過ぎてしまったのでしょう。
でも、サマリア人の見方は違っていました。彼は、父である神様の目で見たのです。
「まだ助かるかもしれない」「自分にできることがありそうだ」。
この見方は、素晴らしい愛の実践につながりました。
私たちは、どんな目で見るのでしょう。
日常の中で、あるいは緊急事態の中で。
たとえサマリア人ほどのことはできないとしても。
昨日のさんざん見てしまった画像の中で、心臓マッサージをしているらしい女性の姿がちらりと見えました。近くのクリニックの方々が駆け付けた、と報道されていました。
私たちは、「善いサマリア人」の姿を垣間見たのです。
≪聖書箇所≫ ルカ 10:25-37
(そのとき、)ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」