9/11 若い人のための日曜日の聖書 年間第24主日 ルカ 15:1-19

二十四節気の「白露」が宿った花びら

羊はなぜいなくなったのかしら?

今回の福音箇所を読んで、そんなことが気になりました。
囲いの外で放牧されて、帰ってくる途中ではぐれてしまったのか。
お昼寝をしているうちに、気がつくと仲間の羊が皆いなくなってしまっていたのか。
羊飼いや牧羊犬の隙を見て、冒険心を起こして逃げてしまったのか。

私たちも、時々イエス様から逃げ出すことがありますね。
故意であったり、故意でなかったり。
そして、一人きりであることに気づいて、突然寂しくなったり。
ともあれイエス様が、常に私たちを探してくださる方であることは、旧約聖書の中の神様のご性格(と言っていいかしら?)から見ても当然です。
裏切られても裏切られてても、預言者を送って回心させようとしてくださる神様でした。
私たちがたとえ、何かきっかけがあって、あるいは気まぐれで逃げ出そうとしても、イエス様は「私は世の終わりまでいつもあなた方と共にいる」、とおっしゃった約束を守ってくださる方です。

8日に亡くなられたイギリスのエリザベス女王の、21歳の時の発言が話題になっていました。

「私は、私の全生涯を、たとえそれが長かろうと短かろうと、あなた方と我々の全てが属するところの偉大な、威厳ある国家に捧げる決意であることを、あなた方の前に宣言いたします。
(I declare before you all that my whole life whether it be long or short shall be devoted to your service and the service of our great imperial family to which we all belong.)」

“I think”でなく、 “I declare”・・・何と力強い宣言でしょう。

私も、誓願を宣立したときに、「私の全生涯を神様に捧げます」と宣言したはずでした。でもイエス様、私は今までもそうであったように、これからも気まぐれを起こさないと、自力で約束することができません。
離れている自分自身に気づいたら、あなたに立ちかえる恵みをください、と祈るだけです。

どうか、私の回心を受け入れてください。

※二十四節気の「白露」が、花びらの上に宿っていました。

≪聖書箇所≫ ルカ 15:1-19

(そのとき、)徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」
「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」