蜘蛛の糸・・・初めて今回の福音箇所を読んだときに思い出したのは、芥川の児童向け短編小説『蜘蛛の糸』でした。
その後、似たパターンの話が、キリスト教界にも仏教界にもあることを知りました。「私だけ助かればいい」という生存本能に直結したエゴイズムが滅びを招く、というパターンです。
それに比べると、わが「ある金持ち」はまだ良心的です。自分が助からないなら、せめて今生きている兄弟たちは助けたい、と願うのですから。
それならなぜ、生きているときに門前のラザロに少しでも親切にしなかったのでしょう。
きっと、門を出入りしながらも、「できものだらけの貧しい人」は目に入らなかったのでしょう。あるいは、目に入っても、「汚い」とか「じゃま」と思うだけだったのかもしれません。
「貧しい人々はいつもあなた方と一緒にいる」―この言葉は、今年読んでいるルカ福音書だけに集録されていない言葉ですが、その代わりにこのたとえ話が収められているのかもしれません。
主よ、あなたの「あわれみの心」をください。あなたはきっと私の中に模倣と共感を司るミラーニューロンを仕掛けてくださったでしょうから、どうかこれをよく働かせてください。イエス様をあわれみ深い方に育てられたマリア様、どうか私に、そして世界のすべての人、とりわけ世界平和の鍵を握る方々のために執り成しの祈りをお願いいたします。
≪聖書箇所≫ ルカ 16:19-31
(そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。)「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」