12/18 若い人のための日曜日の聖書 待降節第四主日 マタイ 1:18-24

なぜかこの寒さの中で咲いている花。まさに、「荒地に花が咲く」待降節です。

これを書いている今日、12月17日のミサでは、毎年マタイの1章の前半(1:1-17)が読まれ、今年はちょうど明日の第四主日の朗読に繋がっていきます。

私はひそかにこの部分を「カタカナのページ」と名付けました。アブラハムから「マリアの夫ヨセフ」まで、ずらりと名前が並びます。

全部、カタカナ!

そして、旧約聖書を通して読んでいないかぎり、馴染みのない名前ばかりです。

「新約聖書でも読んでみようかな」と思い立った人がいたとしたら、この第1ページである意味不明の「カタカナのページ」を見て、読まないうちからがっかりしてしまうかもしれません。

若い頃、筒井康隆の「バブリング創世記」という短編を読みました。創世記の随所に出てくる系図、そしてマタイのカタカナのページを真似た言葉遊びで、聖書をよく知っている(なおかつユーモアを解する)人にとっては、なかなか面白い作品です。

冒頭は「ドンドンはドンドコの父なり。ドンドンの子ドンドコ、ドンドコドンを生み、ドンドコドン、ドコドンドンとドンタカタを生む」と聖書の名前がナンセンスな「音」に置き換えられて、延々と続きます。

今回、本が見つからなかったのでネットで検索したところ、最後がヨシタカ(著者の父上の名)―ヤスタカ(著者の名)―シンスケ(息子さんの名)で終わることに気づきました。

たとえ家系図が残っていない家族であっても、創世記の時代から連綿と続く系図があって、その最下段に自分が位置することは明らかです。筒井康隆がこの作品を残した意図はわかりませんが、少なくとも中学生か高校生の読者であった私の心に残る、あるいはひっかかる作品ではありました。

私たち日本人にとって、イエスの養父であるヨセフ様がアブラハムの子孫であるとか、ダビデの血筋であるとかは、あまり興味関心のないところでしょう。

その上に、ヨセフ様はイエス様と血のつながりが無いはず。

この連綿たる連なりに、神様はまるで光がさっと差し込むかのように介入なさったのですから。

そう考えると、マタイ福音書の著者の意図も、筒井康隆の意図と同じく、よくわからないと言うことになってしまいます。

ただ私は思います。

ヨセフ様と同じく、私たちも太古の昔から連綿と違つながって、今日ここに至っている。

そこに、神様の意図があり、今のところ1番最後の私への愛がある。

ヨセフ様の系図に、いろいろな物語があるように、私の系図にもきっといろいろな物語が含まれているに違いありません、それを知る事はできないとしても。

御降誕に向かって、マリア様とヨセフ様の物語、そして神様の介入の物語を読み進めながら、私に至るたくさんの「マリア」と「ヨセフ」に感謝し、なんといっても私をこのようにあらしめて下さった神様に感謝を捧げたいと思います。

 

≪聖書箇所≫ マタイ 1:18-24

イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ(た。)