3/26 若い人のための日曜日の聖書 四旬節第5主日 ヨハネ 11:3-7, 17, 20-27, 33b-45

花曇りの桜

働き者で、お人好し、そしてちょっとトンチンカン・・・こんなマルタが好きです。私みたい、と言ったら、「えっ、お人好しではないでしょう」という声がどこかから聞こえてきそう。

でも、根本的に私の生き方はマルタっぽいし、マリアにはなれない(イエス様は、それでもいいとおっしゃってくださっています!)と自覚しています。

しかし、このトンチンカンなマルタに、イエス様は「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」という復活の秘儀に触れる言葉をかけます。マルタが、少なくともこの時点で、復活を理解しないとわかっていながら。

働き者であるかどうかはさておいて、この世に生きているかぎり、私たちの復活についての理解は、マルタと大差ないだろうと思います。

だからこそこの言葉を、マルタとともに、そしてマリアとともに味わいたいです。

マルタもマリアも同じことを言っています。

「主よ、もしここにいてくださいましたら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」。

四旬節も中盤を過ぎる今週、満開の桜とともに、イエス様の生と死、そして私たちの生と死を浮き彫りにするこの言葉を繰り返しながら過ごそうと思います。

 

わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。

 

≪聖書箇所≫ ヨハネ 11:3-7, 17, 20-27, 33b-45

(そのとき、ラザロの)姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」
さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。
マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」
(イエスは)心に憤りを覚え、興奮して、言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。
イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。
マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。