私たちの修道会コングレガシオン・ド・ノートルダムの目に見える印は、銀の十字架です。(あくまでも銀色であって銀製ではありません)。
とてもシンプルな十字架で、イエス様のお体、コルプスがついていません。
時々、「どうしてイエス様がついていないのですか」と尋ねられることがあります。
聖堂の十字架は、お体の付いているものが推奨されているそうですから、シスターの印で十字架に何もついていないのは珍しいのでしょうか。
修道院に入りたての頃、このシンプルな十字架は、「自分自身を磔にするため」、と聞いて、ちょっと怖くなってしまいました。
そして「うまく自分自身をつけられるかしら?」と言う思いです。
それから何十年も経ちましたが、今もって、きちんと十字架に自分自身が張り付いているとは思えません。まして、これを担っているとは。
私たちの目に見える印はこれだけです。
私たちは修道服もなく、他の修道会の習慣にあるように終生誓願式にいただく指輪もありません。
だからこそ・・・と思うのですが、一方で「私にふさわしくない」と言われることを恐れての表面だけの行動はとりたくありません。
イエス様、どうか私をもっと内的にしてください。私にはまだ、十字架に自分を付けることも、十字架を負うこともできていないですが、ただあなたを愛することだけを大切にして生きていけますように。そして、マタイ福音書の宣教に赴く弟子たちへの細々とした注意喚起を、そのひとつでも大切にして生きることができますように。
おりしも明日は7月2日。1964年以前は、この日が聖母のご訪問の祝日で、姉妹たちが誓願を更新する日でした。
≪聖書箇所≫ マタイ 10:37–42
(そのとき、イエスは使徒たちに言われた。)「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。
あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」