昔々、中学生の男子生徒にお手伝いしてもらうために身につけた「術」、いえ「知恵」?
「これは大切なものだから私が運ぶわ」と言えば、彼らは必ず「先生、僕たちがやります」と言ってくれます。
逆に「これを運んでください」と言おうものなら…「なんで、僕たちがやらないかんの?」と絶対反抗されました。
自発と強制にかかわる人間の心理の面白さです。
さて翻って考えてみて、私は自発的に修道生活をしているのでしょうか。
もちろん、呼びかけに応えて希望したのは私ですし、そのために捨てるものもたくさんありました。
その後、思いがけなく取り返すことになったものもあり、客観的にカウントすることは不可能ですが、やはり恵みとしていただいたものの方が多いような気がします。
そして、「恵みとしていただいたものの方が多い」と気づけるのは、「兄」でなく、「弟」だったからのような気がします。神様の呼びかけにすぐに応えない、応えられない分、自分自身の心の観察が深まるからでしょう。
実は、私自身がまったく「兄タイプ」でないので、ここまで書いてきたことはほぼ推測なのですが。
皆さんは、どちらのタイプでしょうか?
どちらにしても、神様はそれぞれにとって一番よい道を準備してくださいます。徴税人や罪人だけでなく、きっと祭司長や長老にも。
ある神父様から伺った話ですが、イエス様は、弟子たちに話かける以上に、律法学者やファリサイ派に多く話しかけていらっしゃるそうです。
その神様を信じて、歩み続けていきましょう。
※画像は、中秋の名月。月はなかなかうまく撮れません。
≪聖書箇所≫ マタイ 21:28-32
(そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。)「あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」