先週、私たちの修道共同体に、ちょっとがっかりしたニュースが流れました。誰もがシーンと静まっている中、いつもは発言の少ない高齢の姉妹が大きな声で言いました。
「こういう時、マルグリット・ブールジョワは、マニフィカト(マリアの賛歌、ルカ1:47-55)を歌ったよね。私たちも歌おう」
そうだ、そうだということになり、私たちはマニフィカトを歌いました。そして、難しい状況の中にも少しだけ希望が湧いてきました。
私たちの創立者聖マルグリット・ブールジョワは、嬉しい時はもちろんのこと、困難な時にもこの歌を歌いました。
カナダの創立の初期の頃、修道院が家事で焼失し、若い姉妹たちが亡くなった時にも・・・。
「ホサンナ」の叫びをあげた群衆のひとりひとりは、どのような思いだったのでしょうか。
圧迫された生活の中で救い主を待ち望む一途な心もあったでしょう。
ただならぬことが起こると予想する不安の解消、やけっぱち、ただのストレス発散・・・。
毎年この日を祝う私たちキリスト者は、受難の週を過ごす覚悟と復活への希望をもってホサンナを歌いたいものです。
ホサンナ、主よ救ってください! ホサンナ、主よ私たちがどんな時も希望を捨てないように助けてください!
≪聖書箇所≫ マルコ11:1-10
一行がエルサレムに近づいて、オリーブ山のふもとにあるベトファゲとベタニアにさしかかったとき、イエスは二人の弟子を使いに出そうとして、 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。 もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」 二人は、出かけて行くと、表通りの戸口に子ろばのつないであるのを見つけたので、それをほどいた。 すると、そこに居合わせたある人々が、「その子ろばをほどいてどうするのか」と言った。 二人が、イエスの言われたとおり話すと、許してくれた。 二人が子ろばを連れてイエスのところに戻って来て、その上に自分の服をかけると、イエスはそれにお乗りになった。 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。 そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。
「ホサナ。
主の名によって来られる方に、祝福があるように。
我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。
いと高きところにホサナ。」
こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。