6月5日から、上石神井の黙想の家で八日間の霊操をしてきました。まるま八日間とるので、行った日と帰った日を入れると十日間です。
十日も日常生活を離れて祈りに潜心できるのは、本当に大きな恵みです。
普段、何気なく読んでいる聖書のみことばにあらためて向き合い、沈黙の中で、自分自身の心を調べ、神様のお声をきかせていただこうと耳を傾ける。
そうでもしないと、今回の聖書箇所のような神の国の秘儀は、「そうかあ」で終わってしまいます。
科学の発達していなかった聖書の時代の人々にとって、固い種がやわらかな芽を出すこと、小さな一粒が大きな枝をはることはどんなに不思議で、そこに神様の働きを見るしかなかったでしょう。
現代人の私たちは、もう一つの目をもって、いかに種が芽を出す仕組みを知っていたとしても、私の内面に神様が蒔いてくださった種、神様が私の中で始めてくださったみわざを見なくてはなりません。
すごいと思いませんか?
私の内面を神様はどんなに大切にしてくださっているでしょう。
そう、大切にしていないのは私の方で、外的なことにばかり気を奪われ、実が熟しているのかどうかさえ気づかない・・・それを日常生活にしてしまっていることに、あらためてはっとし、「神様、ごめんなさい」と赦しをお願いしました。
あわれみの神様は、私をじっと見つめて、「気がついたら、やり直そうね」と。
帰院すると、十日分の仕事は山のように重なり、すぐにも外的なことばかりになってしまいそうです。
そして、このようなルーティーンを毎年続けて、せめて一歩でも、半歩でもあなたに近づきたいです。
≪聖書箇所≫ マルコ4:26-34
そのとき、イエスは人々に言われた。)「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。