昨年の今頃、ダッカ(バングラデシュ)のレストランで、日本人、イタリア人、米国人などが、「十字軍」とみなされてISにより人質とされ、さらに殺害されました。私が知る限り、亡くなられた日本人のお一人は熱心なカトリック信者でしたが、その方も他の犠牲となった方々も「十字軍」だったわけではありません。さらに犠牲者の中にはバングラデシュ人さえ含まれていたそうですから、何ともやりきれない事件でした。この事件の直後、ネットに「海外に出かける時に覚えておくべきアラビア語」の一覧のようなものが出ていました。「私はイスラム教徒です」とか「私はコーランを暗唱しています」とか「私はアラーを信じています」とか。サバイバルの方便です。コーランを持ち歩くことも勧められていました。
私が当事者だったらどうするだろう、と考えさせられました。助かるかもしれない可能性に賭けて、「私はイスラム教徒です」と言うことができるかどうか。言って助かったとしても、神様は私を責めないでしょうが、自分の気持ちに整理がつくか…
やっぱり、コーランを手にして助かるより、聖書を手にして死にたい、と少なくとも安全な状況にどっぷり浸かっている今は思います。
今回の福音箇所で、イエス様は私たち(特にキリスト者)に、どのような状況にあっても、たとえ殺されそうでも、イエス・キリストが神の子であり、唯一の救い主であることを恐れずに伝えなさい、と教えてくださっています。
口でそのように宣言することも重要でしょうが、生き方でこれを示すことはもっと大切です。
当時の人々にとって、最も安い雀(貧しい人の蛋白源であり、神殿に捧げるいけにえでもありました)でさえ、心にかけていらっしゃる神様が、どんなに私たちを喜んでくださるでしょう。
イエス様が私の肩を抱いて、天の神様に紹介してくださっているシーンを想像してみてください。
「この人は欠点も多いけれど、私の仲間として一生懸命生きましたよ」。
若い皆さん方には難しいかもしれませんが、だれも自分の人生の長さを知らないのですから、今もし私の人生が終わったら、イエス様はどのように私のことを神様に取り次いでくださるか、ぜひ想像してみてください。
あるいは、「私の家族や最も親しい友だちは、私のお葬式にどんなことを思い出してくれるか」でもいいです。
それは、成績が良かったとか、大企業に就職したとか、それだけではないはずです。
むしろ、どのように生きたか、どのように愛したか、それだけではないでしょうか。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ マタイ10:26-33
「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはないからである。わたしが暗闇であなたがたに言うことを、明るみで言いなさい。耳打ちされたことを、屋根の上で言い広めなさい。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。」「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。」