2017年7/2 若い人のための日曜日の聖書  年間第13主日  マタイ10:37-42

母の好きな親子グマ

「今度、いつ来るの?」

私が母を訪ねるたびに、必ず母が最後に口にする質問です。

そして、私が次に来る日にちと曜日を確認して、安心してさよならの挨拶をします。

様々なことが少しずつ分からなくなってきているのに、よくまあ確認だけは忘れないこと、と感心してしまいます。

 

50年ほど前まで、「修道院に入る」ということは、親の臨終か葬儀以外にはほぼ実家に帰らないことでした。

今も、「祈りの生活」を第一とする修道会(たとえばカルメル会とかトラピスト会とか)の方々は、修道院の外に出ることがほとんどありません。

しかし私たちのように、活動会と呼ばれ、教会、学校、病院、養護施設などで働く者たちは、必要に応じて家族を訪問したり、介護したりすることができるようになりました。

特に、私のように一人っ子で母の介護が必要になると、修道会も全面的にこれに協力してくれます。

実を言えば、二十数年前に入会するときには、母がこんなに長生きするとも、その母の面倒をここまで見られるとも想像していませんでした。

本当にありがたいことです。

そして、母のことが気にかかりながらも、この生活を選んでよかった、と思います。

きっと結婚も同じことで、どちらの親がどのような寿命と健康状態を与えられるか、その時自分たちがどこでどのような生活をしているかは、予測も計算もできません。

結局、すべてを神様にお任せして、今、「ここだ」と思う生活に飛び込むしかありません。

 

今回の聖書箇所の前半を読むと、イエス様への愛と誰かへの愛を比較しているように感じられますが、私はそうではないと思います。 両親や家族や友人への愛は、「神様が一番で、お母さんは二番」とか、「神様より夫の方を愛している」とかいうものではありません。

神様は私が愛する人の中にも、私が「苦手だ」とか「嫌いだ」と思っている人の中にも存在するのですから。

だから、無条件に愛してくださるイエス様に従っていくには、愛することに関して限界のある「自分の十字架を担」うしかないのです。(Sr.斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ マタイ10:37-42

「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」