2017年7/30 若い人のための日曜日の聖書  年間第17主日  マタイ13:44-52

昨夜、珍しく夢を見ました。

夢の中の私は、入学式の翌日の新入生クラスの担任でした。

男女あわせて40人くらいのクラスでした(このようなクラスの担任をしたことはないのですが)。

私は、「今日一日はずっとLHRだ」とワクワクしていました。

 

目が覚めて、何にワクワクしていたのだろうかと考えました。

「このクラスを三年間かけて育てていこう」「生徒と一緒によいクラスにしていこう」。

そして何よりも、「このクラスにイエス・キリストの価値観を浸透させよう」、と夢の中の私はワクワクしていたようです。

 

先日、桜の聖母学院高校の卒業生で教育実習を終えたばかりの方から、以下のようなメールをいただきました。

 

卒業生として、実習生として、それぞれで知ったことが数えきれないほどありました。 雅代先生に媚を売るつもりではありませんが、高校時代に自分がどれだけ恵まれた環境の教室で勉強できていたのかとか(当時はありがとうございました…)、生活指導をしながら言葉選びに気を使ったりとか、教科の教員としての学びよりも、担任としてクラスを持った時の学びの方が断然多く感じました。

 

確かに私は、人間関係でも物理的な面(掃除とか、掲示物とか、学級文庫とか、コート掛けとか)でも、「教室の環境」を大切にしていました。

そこは生徒たちと私自身にとっての「学びの場」であると同時に、「チャペル」であり、「舞台」でした。

さらに言い換えるなら、イエス・キリストの価値観を学ぶ場であり、それを心に深く浸透させるために祈るチャペルであり、それを実行していく舞台でした。

 

イエス・キリストの価値観をクラスに浸透させる、ということは、私にとって最重要事項でした。

 

今回の聖書箇所は、どんな犠牲を払ってでも宝や真珠を手に入れようとする人の姿から始まります。

そして、前の週と同様、善いもの(者・物)と悪いもの(者・物)をより分ける、あるいは入れ替える人の姿で結ばれます。

私たちに、天の国に入るために何が大切で、何のために力を尽くすべきかを教えていると同時に、「神様ご自身が、ご自分の子イエス・キリストを犠牲にしてまで、私たちの救いを最重要事項とされた」ことも示唆していると私は思います。

 

あなたは今、何を最重要事項としていますか?

それは、神様に喜ばれ、人に喜ばれて平和につながるものでしょうか?  (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マタイ13:44-52

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、

燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」「あなたがたは、これらのことがみな分かったか。」弟子たちは、「分かりました」と言った。そこで、イエスは言われた。「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている。」

 

最後にもったクラスの入学式後のLHR