2017年9/3 若い人のための日曜日の聖書  年間第22主日  マタイ16:21-27

誓願直前のジョエル

あと数日で、シスターになってから25年になります。修道会での私の同期は3人。中米ホンデュラス出身のメルバ、フランス人のジョエル、そして私でしたが、ジョエルはシスターになった直後、クリスマスの日だったか、同じ町の観想修道院(外に出ないで、祈りに専念するタイプのシスターたち)に自転車でお菓子を届ける最中バスに轢かれて亡くなってしまいました。だから今この地上には2人です。ジョエルはきっと、天国で私たちと25周年の喜びを共にしてくださっているでしょう。

さて、この25年間、善いこと、神様のみ心に叶うことも沢山してきたつもりですが、同時に人間的な思いから、神様の邪魔をすることも同じくらい沢山してしまったなあ、と後悔されます。

中世イタリアの聖人、アッシジのフランチェスコの伝記『小さき花』に次のような話があります。フランチェスコがブラザー・レオーネと旅しながら「たとえ私たちがこの地上で聖性や誠実や高徳の模範を示しても、その中に完全な喜びはない」と言うのです。そして2マイルに渡って、同じようなフレーズが延々と繰り返されます。「たとえ私たちがどのような奇跡をおこなっても・・・、たとえ私たちがあらゆる知識をもっていたとしても・・・、たとえ私たちがすべての人をキリスト教徒にしたとしても・・・その中に完全な喜びはない」。

ブラザー・レオーネはたまりかねて、「では、完全な喜びはどこにあるのですか?」

フランチェスコは答えました。「私たちが疲れて空腹でこごえながらこの旅を終えて修道院に着くと、門番が『お前たちのことなど知らない、出ていけ!』と追い出された時、私たちがこの一切を主への愛のために喜んで苦しみを耐え忍ぶなら、そこにこそ完全な喜びがある」。

そのようなフランチェスコの姿勢こそ、自分の十字架をしっかりと担って神様に付いていくことであり、逆にうまくいったことしか見なかったり、苦しみを他者のせいにしたりする生き方は「神様の思いの邪魔」をしていることになるのでしょう。

メルバと私は、ジョエルより25年分、この世の喜びと共に、悲しかったこと、辛かったことを味わいました。

少なくとも私は、全てを「主への愛のために喜んで耐え忍ぶこと」はできませんでした。でも、今からでも遅くないと思っています。記憶という人間に与えられた素晴らしい賜物を用いて、一つひとつを反芻したいと思います。

「完全な喜び」、言い換えれば本当の喜びに少しでも近づけるように。

そしていつの日か、ジョエルと私たちが天の国にそろったとき、「完全な喜び」について報告しあえるように。  (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マタイ16:21-27

このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである」。