十字架の下のマリアさま

去年の9月から調布教会で行われた「34週祈りの旅」に参加しました。その28週目は「わたしたちのために、イエスが死を迎える」というテーマでした。その第3~4日は、「愛する弟子と母(ヨハネ19・25~27)」を祈ることになっていました。聖書箇所は次のとおりです。「イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた。それから弟子に言われた。『見なさい。あなたの母です。』そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

私は、第3日には、「愛する弟子を見て、母に、『婦人よ、御覧なさい。あなたの子です』と言われた」という言葉を祈りました。以下は、私の全く個人的な祈りです。情景を描いていくと、私の祈りの中では、母マリアは、イエスが張り付けられている十字架にしがみついておられました。マリアは心の中で、「イエス、イエス」と言い続けていました。マリアの心は、十字架に付けられたイエス同様に、どん底に突き落とされたような、光が全く射さず、悲しみにうちひしがれ、胸が張り裂けんばかりでした。イエスの頭や体から血が出ているように、マリアの心からも血が出るほどの苦しみを味わっておられました。だから、イエスからヨハネのことを「あなたの子です」と言われても、マリアにはその言葉は遠くにしか聞こえず、心に届きませんでした。

マリアは、十字架にしがみついて「イエス、イエス」と言いながら、この子を産んでよかったのかという思いが湧いてきました。ナザレで天使から言われた「あなたは身ごもって男の子を産む・・・その方は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」などの言葉は一体何だったのだろう、あのとき、「お言葉どおり、この身に成りますように」と言わなければよかったのかと。そして、マリアはこれまでの悲しかったことを思い出しました。イエスが産まれて、すぐに真夜中にベツレヘムからエジプトに逃げなければならなかったこと、エジプトへの道々の怖さ、エジプトでどんな生活が待っているのかわからない不安など。しかし、それらがどんなに困難な状況でも、わが子イエスは生きていました。この十字架上で起きている事は、これまでとは決定的に違います。イエスは十字架上で死んでいきます。本当にイエスを産んでよかったのか、わが子を、このような十字架に張り付けにされて失わなければいけないとは、一体どういうことだろう・・・マリアは、イエス同様、地獄に突き落とされるほど苦しまれたにちがいないと思いました。

だからこそ、イエスが御父のもとに帰られて、また私たちのところに来られた時、イエスが、誰よりも先に、自分の心と苦しみを一番強く共にした母マリアにこそ、会いたかったにちがいありません。母マリアに、大丈夫だよ、心配しなくてもいいよ、安心していいんだよと声をかけたかったにちがいありません。聖書には、イエスが復活後、最初に母マリアに会いに行かれたとは書かれていません。しかし、復活したイエスは、誰よりも早く母マリアにこそ会いに行かれたことでしょう。

(Sr.兼松益子)