あなたがたは世の光である

列福式に参加したSr.遠藤の写真

2月2日、調布教会でレクツィオ・ディヴィナをしました。翌週日曜日のマタイ福音書5章13~16節をゆっくり読みました。互いに心に響いた箇所を3回繰り返しました。「あなたがたは地の塩である。」「あなたがたは世の光である。」「燭台の上に置く。」「あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」「人々はあなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」

私は、「あなたがたは世の光である」という言葉を選びました。よく言われることですが、あなたがたは世の光になりなさいではなく、すでに「あなたがたは世の光である」という断定なのだということを思い出しました。そして、私たちがどういう点で世の光なのだろうかと振り返りました。神がおられる、神が私たちを愛しておられると私たちが伝えることができる点で、この社会の中で私たちは「世の光」ではないかと思いました。

確かに社会をみると、足りないものがないと思われるほど、物にあふれています。ITなどの科学技術も医療もどんどん進み、私たちはその恩恵にたくさん与って生きています。それでもう十分ではないか、今のままで神がいなくてもいいのではないかとさえ思われます。神が入る隙がないほど、私たちは満たされて生きているかにみえます。

それでも、「私は効率や成果が要求される社会で生きていけるのかしら」「みんな自分のことで精一杯で、私の居場所があるのかしら」などと心細く感じながら生きている人がいるかもしれません。私たちは自分の存在根拠を自分の中に持っていませんから、生きていくためには、私の存在を絶対的に肯定してくださる方、つまり神が必要です。そして、その神は確かに存在します。「たとえ、女たちが忘れようとも、わたしはあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたをわたしの手のひらに刻みつける」(イザヤ書49章15~16)と言ってくださるいつくしみ深い神がいること、その神が、世界に73億人いても、まるで私しかいないかのようにあたたかく見守っておられることを伝えることができる点において、私たちは世の光ではないかと思います。大きな悲しみの中にいるときも、イエスご自身が人間の限界を背負って生きてくださったから、神が共にいて、寄り添ってくださると伝えることができる点において、私たちは世の光ではないかと思います。

心に響いた聖書箇所を互いに分かち合った後、30分ほど祈りの時間を持ちました。聖堂に行って十字架を見た時に、十字架上のイエスこそ世の光なのだとごく自然に心が打たれました。人々からどんなに侮辱され、ののしられても、ののしり返すことなく、私たち人間をご自分の体で守り、神への道を開いてくださったイエスこそ世の光なのだ、ここまでご自分の独り子を私たちに差し出してくださった神がおられることに思いを馳せました。

2月7日に高山右近は列福されます。豊臣秀吉が右近に棄教を迫ったとき、右近は「私は全領地をもらってもキリスト教を捨てることはありません」と語ったと言われます。また、「人間にかかわることは変えても、神にかかわること、その教えにかかわることは一点たりとも変えることはできません」と譲ることができないものがあることを示したと言われます。「右近は自分さえ神と繋がっていればよいのではなく、一人ひとりに手を差し伸べていこうとする」(2017年1月7日古巣馨師講演「ユスト高山右近という生き方」)。右近は神と人への愛を見事に生き抜いた人でした。今の時代に、神がおられることと人間らしい生き方を鮮やかに示した人として、右近は世の光として輝いています。

(Sr.兼松益子)