「先生、俺に神様を信じさせてよ」
冗談とも本気ともとれる言い方で訴えられたその言葉を、彼のその時の口調と共に私は鮮明に覚えています。
そして、この口達者な私が、とっさに返す言葉が出なかったことも。
その彼も、1982年か83年の生まれのはずだからもう三十代半ば。
どんな大人になったでしょうか。
複雑な家庭環境の中で生まれ育ち、障がいを負った妹を愛するナイーヴな少年でした。
この時も、思い出している今も、つくづく感じるのは「信仰は恵み。努力したら得られるものではない」ということです。
今回の聖書箇所に出てくるトマス。
復活したイエスのご出現の場に居合わせず、「イエス様だって? そんなはずないよ。みんな騙されているんだよ。あの方の釘の跡にこの指を突っ込んでみなけりゃ、俺は絶対信じないよ」。
なんだか、口を尖らせて文句を言っている若者の姿が目に浮かびます。
このトマスにイエス様は特別声をかけてくださるのですから、トマスは本当に幸せ者です。
後世を生きる私たちは、「見ないのに信じる者」になるしかありません。
そう、私たちはこの地上に現存する「体」としてイエス様を五感でとらえることができません。
でも、春ごとに開花して見事に散っていく桜の花に、
聴いた音楽、見た映画、読んだ本、遊んだゲームの中に、
だれかのあたたかい思い遣りに、
あるいはだれかの厳しい一言に、世界中の様々な出来事の中に、
確かに神様はいらっしゃいます。
それらを「よすが」「手がかり」として信じることができるよう、神様にお願いする、それだけが私たちの努力の範囲です。
もし信じたいなら、あなたもお願いしてみてください。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ ヨハネ 20:19-31
その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」