巡礼初心者長崎へ行く その1

長崎は、人生4回目。小学生の時、当時仕事で諫早に居た叔父を訪ねたのが初めてだった。夜、お酒を飲んで酔った叔父が、私を雲仙地獄谷で引き回し(危うく殉教するところだった)、翌朝、姉である私の母にひどく叱られていたのを思い出す。二度目は、親友との二人旅だった。本当は前年に計画していた旅だったが、大型台風上陸のため眼鏡橋は崩れ、九州地方の交通網が軒並みストップし、直前キャンセル。翌年に変更せざるを得なくなった。三度目は高校生の修学旅行引率。福岡、大宰府、柳川、長崎、ハウステンボス等々、いろいろな所を見学した。ただ一つ心残りだったのが、永井隆博士の如己堂が、工事中でシートに覆われ中が全く見えず、祈りができなかったことだった。今回、子どもたちのキャンプで北九州に滞在した後、どうしても足をのばして、長崎巡礼をしたかったのは、この如己堂の前で祈り、永井博士の強い信仰心の一かけらでもいただきたい、という思いからだった。

特急列車で終点長崎に向かう途中、浦上にも停車することが分かり、迷わず下車して一目散に如己堂へ向かった。真夏の浦上の陽ざしに目を細めながら坂を上り、ついに焦がれた場所に着いた。わずか畳二畳の部屋には、永井博士の長崎と神への思いが、溢れるばかりに詰まっている気がした。

1945年、当時長崎医科大学放射線科の医師であった博士の体は、徐々に放射線の影響を受け始めていた。大東亜戦争末期の8月9日、三日前の広島同様、長崎の街も一発の原子爆弾投下によって壊滅状態となり、人々は、今だかつて見たこともないほどの異常な被害を被った。もちろん博士の大学も例外ではなかった。家族との連絡も取れないままに、彼は医師として人々の治療に奔走していた。被爆した自らの体を顧みることなしに…。それから何日もたったある日、博士は自宅のあった場所に、妻の焼け残ったロザリオだけを見つけた。私には、この時の彼の心の思いをはかり知ることは到底できない。神様は、姿なき妻のロザリオを通して、博士に何を語られたのだろうか?後に博士は、被爆によってさらなる白血病に蝕まれ、この如己堂(己のごとく隣人を愛せよ)と名付けた畳二畳の家で、子どもたちと三人、誰を恨むことなく、ひたすらイエス・キリストに倣い「如己」の信仰をまっとうされた。

如己堂の前で、博士の信仰を思い祈る私に、神様は何を望まれたのだろうか?何度も振り返りながら如己堂を後にし、歩き始めた私の体から、再び汗がにじんでくるのを感じた。 (Sr.高橋香久子)