「今までの宗教の時間で一番心に残っているのは何ですか?」
こんな質問を幼稚園や小学校からカトリック学校に通っている中高生にすると、必ず帰ってくる答えは
「聖劇(またはタブロー)です」。
このあとひとしきり、「○○ちゃんがマリア様だった」「僕は博士になりたかったのに宿屋の主人だった」などという和やかな会話が続きます。
演劇は子どもたちの心に強烈な印象を残すようです。
聖劇は、中世ヨーロッパの教会で、クリスマスではなく復活祭の劇として生まれました。
復活のシーンを歌うラテン語の聖歌に簡単な動作を付けたのが始まりでした。
復活という重要な出来事を、ラテン語を理解しない民衆でもよく理解できるように、教会が工夫したのです。
今でも、フランスやイギリスでは毎年上映しているところがあり、Youtubeでも見られます。
今回の聖書箇所は、福音書のいわばクライマックスです。
あれだけ予告されていたにもかかわらず、イエスの十字架上の死によってまったく希望を失い引き籠っている弟子たち。
イエスのご遺体が盗まれてしまったと思い込んだイエスの女性の弟子マグダラのマリア。
そのマリアからの通報で、一目散に走り出すぺトロとヨハネ。
復活劇のこのシーンは、教会の真ん中の通路を使って2人があたかも徒競走をするように演じられた、という記録が残っています。
墓は空で、イエスの体だけが消えていました。
これを見て、弟子たちはやっとイエスが生前述べた言葉の意味がおぼろげながら分かってきます。
復活されたイエス様は、しばらく弟子たちと共に地上にとどまり、彼らの復活理解を助けてくださいます。
このつたない聖書エッセイも、次週でさらに復活について扱いたいと思います。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ ヨハネ 20:1-9
週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。そこで、シモン・ペトロのところへ、また、イエスが愛しておられたもう一人の弟子のところへ走って行って彼らに告げた。「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのか、わたしたちには分かりません。」そこで、ペトロとそのもう一人の弟子は、外に出て墓へ行った。二人は一緒に走ったが、もう一人の弟子の方が、ペトロより速く走って、先に墓に着いた。身をかがめて中をのぞくと、亜麻布が置いてあった。しかし、彼は中には入らなかった。続いて、シモン・ペトロも着いた。彼は墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。