2017年10/22 若い人のための日曜日の聖書  年間第29主日  マタイ22:15-21

イエスが「皇帝のものは…」と述べた時にローマ帝国皇帝であったティベリウスの肖像の刻まれたデナリオン銀貨

「偽善者!」

明治学園で教えていた頃、よく男子中学生に言われた言葉です。

正義のまかり通る子ども時代から必ずしもそうでない大人の世界に移行しつつある思春期に、聖書の言葉もましてそれを説くシスター教師も、「偽善」と見える彼らの気持ちはよく分かりました。

 

「私はどちらかと言えば偽悪者なのだけどなあ」と思いながら、以下のように説明しました。

「数学の先生は数学ができるから数学の先生。英語の先生も英語ができるから英語の先生。でも、宗教の先生は、聖書の言葉どおりに生きられるから、宗教の先生なのではない。できない、という点では生徒以下かもしれないけれど、だれかが伝えなくてはならないことだから伝えている。聖書の言葉のひとつも完全には生きられない、という悲しみをよく知りながら」。

最後の一文は、言葉にしなかったかもしれません。

この説明で、結構生徒は納得してくれました。「じゃあ、仕方ないから聞いてやるか」程度には。

 

さて、選挙が近づいている今、この政治界の状況は思春期の子どもたちの目にどのように映っているのでしょうか。

最近街で見かけた選挙カーの側面に「大義なき選挙」だったか「大義なき解散」だったか、でかでかと書かれていました。

つくづく、今高3の担任をしていて、選挙について何らかのコメントをする立場でなくてよかった、と思います。

まあ18歳はすでに、世の中の酸いも甘いも理解する年齢ですが。

 

イエス様は世の中の酸いも甘いも知り、清濁併せ飲んだ上に、さらにこの世界の変革のために命をかけて働きかけます。

ただの受容でも妥協でもなく、もっとも勇気ある生き方であり、死に方でした。

宗教的言葉で言えば、これこそ「無条件の愛」。

「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」

大切なのは、税金(しかも占領国への)を払う払わないでなく、神様からいただいたものをどのように神様にお返しするかです。

デナリオン銀貨に皇帝の姿が刻まれているよりもっとはっきりと、私たち一人ひとりには「神様その方そのもの」が刻まれているのですから。     (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マタイ22: 15-21

それから、ファリサイ派の人々は出て行って、どのようにしてイエスの言葉じりをとらえて、罠にかけようかと相談した。そして、その弟子たちをヘロデ派の人々と一緒にイエスのところに遣わして尋ねさせた。「先生、わたしたちは、あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え、だれをもはばからない方であることを知っています。人々を分け隔てなさらないからです。ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか。」イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。「偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい。」彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、「これは、だれの肖像と銘か」と言われた。彼らは、「皇帝のものです」と言った。すると、イエスは言われた。「では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らはこれを聞いて驚き、イエスをその場に残して立ち去った。