今から30年ほど前、いよいよ修道院に入るという時、アンケートのようなものがありました。
たとえば、
Q修道生活を始めるにあたって、一番辛いことはなんですか?
とあって、いくつかの選択肢の中に「禁煙」という項目があり、笑ってしまいました。たばこは今にいたるまで吸ったことがありませんし、一緒に入った人たちを見回しても、およそ「喫煙・禁煙」とは無縁そうでした。
そして「しめた、禁酒とは書いてないぞ」と(実際は、お祝い日にワインをいただく程度です)。
質問の中に、「修道生活にとって一番大切なものは何だと思いますか?」というのもありました。
「信仰」とか「共同生活」などの選択肢があり、どれも「大切そう」でした。
ひとつだけ選びなさい、とは書いてなかったので、私は「神への信仰」と「人への尊敬」を選びました。
どうして「どれも大切そう」の中からこの二つを選んだのか覚えていないのですが、今回の聖書箇所が私の無意識の中に反映されていて、そこからの選択だったかもしれません。
入会してから、私たちの創立者聖マルグリット・ブールジョワの残した『手記』の中に、以下のような言葉を見いたしました。
「私が今まで熱烈に望み続けてきたこと、そして今もなお切に望んでいることは、万事に越えて神を愛し、自分を愛するように隣人をも愛しなさいという大いなる掟が、すべての人の心に刻まれることです」。
おそらく桜の聖母学院と明治学園の卒業生の皆さんは、この言葉を聴いたことがあるでしょう。
マルグリットの『手記』は、今一冊の本として印刷されていますが、まさに彼女がペンを執った原本(バラバラの手紙、霊的メモ、契約書など)は度重なる火災のためにほとんど失われ、のちに様々な別の二次史料から再編集したものしか伝わっていません。
私はこの『手記』がとても好きなのですが、その第一の理由は、彼女が即物的な日常生活―食べ物の調達だとかお金の支払いだとか―と格闘しながら、神との交わりを深めていっているさまが克明に記録されているからです。
また、この『手記』の再編集に関わった多くの人たち(マルグリットと同世代の司祭たち、様々な時代のシスターたち)も、決して即物的な部分を削ろうとはしなかった点をありがたく思います。これが、私たちコングレガシオン・ド・ノートルダムのシスターの生き方なのです。
それにしても、私はどれだけイエス様のおっしゃった二つの掟を、マルグリットのように「すべての人の心に刻まれる」よう望み、努力しているか、と思うと恥ずかしくなります。
取り敢えずいつも目の前の人(生徒や卒業生)のためには努力していますが、「すべての人の心」とまではいきません。
そして何よりも、自分の心のために努力しているか、と問うと、さらに恥ずかしいです。
まあ、このささやかな聖書エッセイを公開し続けている、ということは「自分とすべての人」にとって害にはなっていないでしょうが。
自分自身、そして「すべての人の心」をこの掟に向けていけるよう、そのための小さな手段を神様に問いかけながら歩んでいきたいです。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ マタイ22: 34-40
ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」