「私はマルタだ」と長い間思い込んでいました。
働くのが好き、特に神様のために働くのが。
私共の修道会コングレガシオン・ド・ノートルダムの、シスターになって15年以下の姉妹たちの、多文化性を体験的に学ぶ集いVisitation2019が、私の住む調布修道院の敷地内にある元学生寮「友愛の家」で開かれています。正式には、7月22日月曜日からなのですが、16日頃から、世界各地から31名の若手姉妹たちが到着し、今や調布修道院はそれでなくても建築中で手狭まところに輪をかけて、姉妹たちであふれかえっています。嬉しいことではありますが、いつもの13名が44名に膨れ上がり、平均年齢75歳が、突然30歳くらい若返ってしまって、とまどうこともしばしばです。
私は、数名の姉妹と共に、彼女たちを受け入れ生活のお世話をする立場ですので、最初にこの話があった時から「宿屋のおかみさんに徹しよう」、「ホテルでなく、自分たちの会の修道院に泊まれてよかった」と思ってもらえるようにしよう、と決心しました。
ところが…31名の要求に応えるのは容易なことではありません。通常の仕事や、修道院内の役割分担に加えての、「宿屋のおかみさん」。
もちろん、31名は「お客様」ですが、姉妹でもあるので、手伝ってもくれますが、それなりに当然の要求もあります。
「PCの充電をしたいのだけど、ソケットがコンセントと合わない」→調布駅前のBカメラに直行。
「飛行機の中で耳が痛くなったから、綿棒と消毒液が欲しい」→近くのドラッグストアーへ。
「風邪をひいたので、風邪薬とレモンが欲しい」→スーパーへ走る。
「開会式のミサで、誓願を立てる姉妹がいるのだけれど」→誓願式のろうそくの準備!
と、目まぐるしく一日が過ぎて、「宿屋のおかみさん」シスターたちはへとへとです。
「ああ、ちょっとでいいから座って静かに祈る時間をちょうだい」と思い、「あれ、私、マルタタイプのはずなのに」…。
マルタとマリアは、異なる正反対のタイプのように思われがちですが、今体験している現実からみると、必ずしもそうではないようです。人はだれでも、マルタとマリアを内包しているのでしょう。
活動が過ぎれば、静かに祈りたくなり、祈っていれば、世界が気になって動きたくなる。
イエス様は、「必要なことはただ一つ」とおっしゃるけれど、私たちは常に「今、何が最優先事項」を考え、賢く行動し、その上で人と比べないことが重要なのでしょう。
マリア様、どうぞ私を「宿屋のおかみさん」に徹しさせてくださいね。若い姉妹たちのために、修道会の未来のために、しばらくの間、私をマルタのような働き者にしてください。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ ルカ 10:38-42
(そのとき、)イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」