「街中クリスマスのイルミネーションと音楽でいっぱいで、うるさい!」
先週、近くのF教会で行われた祈りの集いで、イタリア人のA神父様が長い腕を振り回しながらおっしゃいました。そして、「でも、待降節は大切な大切な期間です」。
私は心の中でにんまりしてしまいました。
だって、このF教会の前庭の柵にも駅前通りに負けず劣らずイルミネーションがぴかぴかしていて、すでに大きな家畜小屋までできていたからです。なかったのはクリスマスキャロルくらい。
でも、A神父様のおっしゃりたいことはよく分かりました。
そう、待降節は大切な大切な期間です。
今週の福音は、先週のマルコと同じ洗礼者ヨハネがイエス様について証する場面です。
それで、私たちはちょっと視点を変えて、マリア様のことを思いめぐらしましょう。
というのは、中米のシスターが、最近のFacebookにお腹の大きいマリア様の像をアップしていたからです。
いかにも清楚な少女、といったマリア様のお腹がかなり大きくふくらんでいます。
二千十数年前の今頃、まだいたいけな年頃の少女であるマリア様のお腹の中で、小さな胎児のイエス様が生き、動いていらしたのです。
皆さんも、自分のお腹に手を置いてみてください。
男性でもかまいません。
聖パウロははっきり言っています。
「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか」(Iコリント3:16)
私たちの体が神殿、つまり神様の宿るところだというのですから、私たちが、男性であってもシスターであっても、祈りの中でイエス様をお腹に宿してもいいのではないでしょうか。
自分のお腹に手を置いて、ゆっくり呼吸してみてください。
もうすぐ、世の荒波の中に、私のために生まれてくださるイエス様が、今、私の胎内で憩っていらっしゃる。
優しく、聖なる気持ちになれませんか。
この傷付きやすい小さな命のために、少しでもこの世の荒波を静めたいと思いませんか。
待降節は大切な大切な期間です。
自分のお腹に手を置いて、ゆっくり呼吸して、過ごしていきましょう。(Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ ヨハネ 1:6-8, 19-28
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。 その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。