ありがたいことに夕方5時を過ぎてもまだ明るい。路面電車で大浦天主堂から長崎駅に戻り、宿泊ホテルを横目に少し先の西坂を目指す。かつて訪れていたはずだが、こんなに駅に近い印象はなかった。ほんのわずかな急坂にもかかわらず、歩き始めると、まるで傾斜45度のゲレンデのように険しく感じる(年齢のせいかもしれない)。息を切らして登りつめると、整然と並んでいる26聖人のレリーフが少し遠くに見え、懐かしさが込み上げてくる。三十数年前のあの日、親友と二人キリスト教が何であるのかも、あの26人が誰であるのかもわからず、このレリーフの前で笑って写真を撮った。その後、宗派は違うにせよ二人とも神様の温かい手に触れられ、信仰の道を歩むことになった。その彼女も10年前、神様を信じて苦しい闘病生活に泣き言もいわず、幼い子どもたちの将来を案じながら与えられた命を全うした。このレリーフの26聖人は、あの日、私たちの後ろから二人の未来を見ていたのだろうか。
同じ西坂で共に殉教したこの聖人たちにも、それまで歩んだそれぞれの人生があったに違いない。その声が聞こえないとしても、私は、一人ひとりの前で祈りたかった。遠くからは同じように見えていたレリーフも、そばでじっと見ればその姿は違う。何を思い、何を祈り、最期の地までの道のりを歩いてきたのだろうか。1596年暮れ、秀吉によって京や大阪で捕らえられた神父や信徒たち24名は、京都一条の辻で耳たぶを切られて町を引き回され、1月10日長崎・西坂へ向かう殉教の旅が始まった。真冬だというのに、彼らの着物は、捕えられた時のまま。同じ季節、部屋の暖房をつけていないだけで、‘寒い、寒い’と震えている自分を思うと、薄着で外を歩き続けるだけでも大きな殉教になる。当初24人で始まった旅は、途中、彼らの世話をしていた青年二人が、‘どうしても’と望んでその列に加わり、26人が長崎に向かうことになった。2月初旬、ようやく一行は、唐津(佐賀県)に到着した。西坂のレリーフの中でも、ひときわ体の小さな12歳のルドビコ茨木、彼を哀れに思った処刑執行人寺沢半三郎は、何とか助けられないものかとしきりに棄教を勧めたが、意志の固い彼の応えはこうであった。『この世の短い命と永遠の命をとりかえるわけにはいきません』。そして迎えた2月5日、大勢の人が見守る中、26の十字架はすでに丘の上に並べられ、彼らは自分の名がつけられた十字架に走り寄った。死を前にした26人は、聖歌を歌い、十字架上から最後の宣教をし、一人ひとり槍で突かれて天に召されていった。これを見ていた人々は、これまでこんな穏やかな処刑に出会ったことがあっただろうか。信者たちの姿を通して人々に得も言われぬ清い感動を与えたこの殉教は、人間の思惑を超えて神を証しする、より力強い宣教となっていくのである。
聖人一人ひとりの前で「アヴェマリアの祈り」を唱えていきながら、手を合わせる24人の中で2人だけ手を広げている聖人を不思議に思い、祈りを終えると辺りはもう薄暗くなっていた。後日レジデンスに戻ってから、その2人は、聖ペトロ・バプチスタと聖パウロ三木であることが分かった。制作者の舟越保武氏が、彼らの視線を下方に向け、見る人と視線が合うように、そしてその人の心を天にあげるようにとの意図があってのことだったようだ。隣接する資料館は閉館時間を過ぎているので諦め、今回は、以前立ち寄ったことのない、向かいの聖フィリッポ教会を訪ねてみることにした。2本の塔が高くそびえるこの教会は、外観が奇抜で目立っているが、2階の聖堂は、静かで温かな雰囲気を醸し出している。聖堂内をよく見ていると、小さなガラス容器の中に3本の骨が並べられていた。聖ディエゴ喜斎、聖ヨハネ五島、そして聖パウロ三木の名が書かれている。貴重な聖人たちの殉教の証。日常のミサの中で、こんなに身近に殉教者と共に祈れる教会が、なんだかとても羨ましく思える。しかし、時を超えて、この殉教者たちと同じ信仰に生きていることが嬉しく、また私に託された‘宣教の使命’にも新たな思いを持つことになった。
さあ、心は満たされたが、そろそろお腹もすいてきた。急ぎ足で坂を下り夕食を買いに駅ビルに行こう。今日はいっぱい歩いたから、いつもよりたくさん食べないと…。 (Sr.高橋香久子)