「ウワッ、きったねえ!」一人の男の子の声が講堂全体に響きました。
そしてこの言葉を制するように「汚くない!」という凛とした声。
明治学園の中学2年生の性教育の時間。今、お母さんの胎内から産み出されたばかりの赤ちゃんの写真がスクリーンに大写しになった時のことでした。
この時講師を務めてくださったのは、元保護者の内田美智子さんという方でした。
ご本人は助産師、ご主人は産科医。内田さんは、お子様方に手がかからなくなった頃から、こうして性教育の講演を始められ、本も書かれていました。性を通して、命を大切にする教育をされる方でした。
「汚くない!」の一言で、生徒たちの気持ちがすーっと落ち着いて、画面の赤ちゃんをしっかり受け止めていく様子が、側にいて手に取るように感じられました。
さて、イエス様は人となられたというのですから、きっと私たちと同じような姿でマリア様の胎内から産み出されたことでしょう。そのさまを最初に見たのは、おそらくヨセフ様。古代ユダヤでは、生まれたばかりの赤ちゃんは産湯ではなく、水で洗い、油を塗って、塩でこすってきれいにしていたようです。
ヨセフ様は油や塩を持っていたかしら。
そして、マリア様がおそらくヨセフ様の手から抱き取って、二番目にイエス様を見たことでしょう(それとも、二番目は飼い葉桶の主であった牛さんでしょうか)。次に、「飼い葉桶」をよすがに羊飼いたちが、さらに星をたよりに東方の博士たちがやってきました。
私は本物の「飼い葉桶」がどのようなものか知りませんが、私たちの多くが最初に寝かされた清潔極まりない病院のベッドとはずいぶんへだたりのあるものであろうことは想像にかたくありません。そして、いくら昔のことであっても、「飼い葉桶に寝かせられている赤ちゃん」なんて、ベトレヘムのはずれのイエス様しかいらっしゃらなかったでしょう。だから、羊飼いたちは見つけることができたのです。マリア様のやわらかな胸と共に、「飼い葉桶」はイエス様が最初に与えられた「居場所」でした。イエス様は、特に貧しく見捨てられた人を友としましたが、この世に生を受けた初めから、イエス様は彼らの仲間でした。と同時に、どの文化圏の人たちも何か神秘的なものを感じる「星」もイエス様のしるしです。どうしようもないほど泥臭い「飼い葉桶」と、限りなく崇高な「星」。この二つがイエス様がこの世に顕われる時のしるしだった、ということは、私たちも同じように泥臭さと崇高さを結びつけながら生きなさい、と神様から呼ばれている、ということです。どのように? それはイエス様にこれから教えていただきましょう。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ マタイ2:1-12
イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。『ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。』」そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」と言ってベツレヘムへ送り出した。彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げたところが、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。