2018年2/25 若い人のための日曜日の聖書  四旬節第二主日  マルコ9:2-10

修道士として、生涯修道院の壁画を描き続けたフラ・アンジェリコの「ご変容」

先週ちょっと触れたように、私は17歳で父を亡くしました。私の目の前で、ベッドに上半身を起こして発作であえいでいた父が、突然静かになって、まるでスローモーションのように倒れこむ姿を見ていたのは、私だけでした。母は、固定電話に飛びついて救急車を要請しているところでしたので。

後に、『ある愛の詩』(エリック・シーガル著)という小説の中で、死を間近にしたジェニーが夫のオリバーに向かって「まるでスローモーションで崖を落ちていくような気分」と言うシーンを読んだとき、父の死にゆく姿を思い出しました。

当時の私は、病気で寝ていることの多い父に近づき難いものを感じて、あまり話すこともしませんでした。でも、幼いときの父との思い出はたくさんあります。父は映画が好きで、ディズニーの『ピーターパン』『101匹わんちゃん』『わんわん物語』などを銀座に見せに連れて行ってくれたこと。帰りに、不二家でお子様ランチを食べるのが楽しみだったこと。そういえば、両親の初デートもディズニーの『ダンボ』だったとか。

私はマイナーなことをなかなか忘れられないタイプです(つまり執念深い!)が、そうであっても、父に限らず、亡くなった方のことを思い起こすとき、その人の欠点だとか失言などは思い出さず、よい思い出ばかりが浮かんできます。ですから、思い出を美化する、という記憶の作用は、神様が私たちに与えてくださったプレゼントだと思います。もしその逆だったら、私たちの人生はどんなに味気ないでしょう。

イエス様は、受難に向かう前に愛する弟子たちに素晴らしい「ひととき」を残しました。白昼夢と片付けるにはあまりにもはっきりとした出来事でした。律法を体現するエリヤと預言書を象徴するモーセ、二人合わせて「旧約聖書」です。(もちろんこの時、新約聖書はまだ書かれていなかったのですから、旧約聖書とは、聖書そのもののことです)。イエス様はこの二人と何を語り合ったのでしょう。聖書に書かれていることが成就し、新しい新約の時代が始まることでしょうか。これから始まるイエスの受難に対する慰めだったでしょうか。(私は、弟子たちばかりでなく、イエス様ご自身にも慰めは必要だった気がします)。

ともかく、呆然としたペトロが仮庵祭(出エジプトの時のテント住まいを思い起こすユダヤ教の祭)を思い出して「それぞれのお方のためにテントを建てましょう」と言い出すと、答えが神様から直接ありました。「私の愛するイエスに、今、あなたが何をしたらよいのか聞いてごらん」。こうおっしゃりながら神様は、テントを建てはじめそうな勢いのペトロのあわてぶりにほほえまれていたに違いありません。

受難を前にしたイエス様に従う弟子たちにとって、なすべきことはただひとつ。何を見聞きしても希望を失わないことでした。この後ペトロたちは、裏切られるイエス様、捕縛されるイエス様、尋問され、馬鹿にされ、殴られ、血みどろになって死にゆくイエス様を体験しなければなりませんでした。その時、彼らは白く輝くイエス様を思い出したでしょうか。おそらくNoです。この「ご変容」と呼ばれる出来事は、復活されたイエス様と出会って、それからさらにずっと経ってから、弟子たちの心の中でその重要性が少しずつ明らかになっていったのではないかと思います。何を見聞きしても希望を失わないこと。なぜなら、イエス様がすべてを変容させてくださるからです。 (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マルコ9:2-10

(そのとき、)六日の後、イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。

一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。

希望を失わずに成功を収めてお母さんと再会するダンボ