2018年4/1 若い人のための日曜日の聖書  復活の主日 マルコ15:1-39

調布修道院聖木曜日の桜

教会か、お花見か、ここが思案のしどころ!

何の話かですって?

桜がもっとも見事な頃、教会の暦ではイエス様の受難と復活を記念します。特に受難を思い起こす復活祭前の1週間、日本人キリスト者としては、桜が気になりながら、お花見に浮かれるのは気が引ける、というちょっと矛盾した気持ちを味わわなければなりません。今年がまさにそうで、この原稿を書いている木・金と、桜と十字架に気持ちを引き裂かれそうです。

特に今年、私の住む修道院の桜はとりわけ見事。同じ敷地内に建っている幼稚園の桜を含め10本ほどの桜の木があるのですが、うす緑がかったピンクの山桜、まさに桜色のソメイヨシノ、透けるようなベビーピンクの枝垂れ桜、濃いピンクの八重桜、赤味の強い寒緋桜…実のなる木に当たり年とそうでない年があるように、今年の修道院の桜は花の当たり年のようです。

「ねがはくは花のもとにて春死なむその如月の望月のころ」

と詠んだのは西行法師。現代の暦ならば三月末の満月の頃。復活祭は、春分の後の満月の次の日曜日、と定められていますので、ちょうど同じ時期にあたります。

桜の花が私たち日本人の心を虜にするのは、長い冬の終わりを告げる満開の枝の凄絶な美しさとともに、はらはらと散る潔さでしょう。そして、復活祭と同じく、毎年この季節が巡ってくるという確かな確信。

こう考えてみると、桜と十字架を重ね合わせることができる私たち日本人は幸せなのかもしれません。人は生きてきたように死ぬ、といいますから、イエス様の生の真実さ、受難と死の苦しみの中の美しさ、そして輝かしい復活という「神様のご計画による営み」を、まさに桜を見ることで直観できるのですから。

もうひとつの有名な桜の詩。

「桜の樹の下には、屍体が埋まっている」という梶井基次郎の研ぎ澄まされた感性も、一脈「復活」に繋がるところがあるのではないでしょうか。 (Sr.斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ マルコ16:1-7

安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を着た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と。」