「先生があと10歳若かったら、僕が修道院から連れ出して結婚してあげるのに」。
明治学園に勤め始めた年に、中2の男の子から言われた言葉です。
私は心の中で「10歳でなく20歳若くないと無理よ」と思いながら、「あら、私修道院から出るつもりなんて全然ないわよ」と答えました。
からかわれたのかもしれませんが、彼の中に「修道院の生活=不自由で楽しくなさそう」という構図があって、「かわいそうに」と思われたことは確か。言われて決して悪い気のしない言葉でしたが、いろいろ考えさせられました。修道生活の良さが、身近な生徒に全然伝わってないということですから。
若い時に好きだったマーガレット・ミッチェルの小説『風と共に去りぬ』。南北戦争をはさんで生きる魅力的な主人公のスカーレットは、あわれみや同情の気持ちには必ず軽蔑が混じる、というタイプ。
少なくともそこだけは私に似ている、と当時思っていました。
今思いかえして、「かわいそう」という気持ちを押し殺すために軽蔑にすり替え、自己実現を優先していたのではないか、とスカーレットと当時の私自身を分析しています。
私自身がそこから脱するには、イエス様の本当のあわれみに触れる必要がありました。
この時期のイエス様は、人気絶頂のタレントさんのようです。宣教旅行から帰って、口々に旅の報告をする弟子たち。でもそれをゆっくり聞いていられないほど人々が集まってきます。おっかけの女性グループまでいました。
その群衆を見て、イエス様は深く心を揺り動かされ、羊の群れの飼い主になります。
「飼い主」とはいえ、自分の寝食を後回しにして、羊に仕える飼い主です。羊たちをもっと生きやすくするために、イエス様はいろいろと教えられたのです。きっと、羊の心に届く言葉で。
そして、単に「教えるだけ」、つまり頭のレベルに留まらなかった、と次週の福音箇所に続きます。イエス様のあわれみって、本当に人間をよく知り尽くしたあわれみです。その部分は、次回書きたいと思います。 (斉藤雅代)
※最近読んだ本、『羊飼いの暮らし―イギリス湖水地方の四季』。著者のリーバンクス氏は、連綿と続く羊飼いの家系の羊飼い。羊と羊飼いの関係がよく分かる本でもありました。まさか彼の画像は出せないので。
≪聖書箇所≫ マルコ6:30-34
(そのとき、)使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。