7/14 若い人のための日曜日の聖書  年間第15主日 ルカ 10:25-37

私の好きなゴッホの『よいサマリア人』。遠くに去っていく祭司とレビ人に対し、傷ついた男をやっとこロバの上に押し上げようとしているサマリア人。踏ん張っている脚に対し、優しい表情が好きです。

「よきサマリア人法Good Samaritan Laws」という法律がアメリカやカナダにあるのをご存知ですか?

急病人や怪我人にたまたま遭遇した医療関係者が、その人の窮地を救うために行った医療行為の結果が望ましいものではなかった(悪化させた、死を招いた)としても、その責任は問われない、というものです。

私はこの命名が好きで、よく宗教の授業で「よいサマリア人」を扱う時に、生徒たちに話しました。

医師の立場に立ってみれば、病院やクリニックで迎える患者さんも「たまたま遭遇した」と言えるのでしょう。だから、(訴えられないように)なんでもかんでも「まず検査」、と考えるのは、人が悪いでしょうか。

それにしても、「よいサマリア人」になろうとする医療関係者の姿は尊いですし、「隣人になろうとした」行為と言うことができます。

今回の福音、「よいサマリア人のたとえ話」のポイントのひとつは、律法の専門家が「私の隣人とはだれですか?」と質問したのに、イエス様は「だれが…隣人になったと思うか?」と逆に問いかけている点です。律法の専門家にとっては、「隣人とは、すでにその範囲が決められている人」。しかしイエス様にとっての隣人とは、「愛の行為によって『なっていく』者」でした。この違いは大きいです。

そして、イエス様ご自身が常に積極的に隣人となっていく方でした。なんと言っても、私のような愚かでつまらない人間を花嫁として迎えてくださったのですから。この恵みを、もっと私の心に刻んでください。私が、だれかの隣人となれるように。  (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ルカ 10:25-37

(そのとき、)ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」