今朝、ネットで興味深いニュースを見つけましたhttps://news.yahoo.co.jp/articles/53c0ed632969a075b9227ab1ae745fb8fc5a1724)。先月の豪雨で倒れた岐阜県の瑞浪市の樹齢1200~1300年の大杉の年輪を活用して、過去千年分の気象状況を読み取り、気候変動の研究に生かそう、という話です。
このところの猛暑で、院内の木々を(エアコンのきいた屋内から)窓越しに見ながら思うのは「ああ、暑さを避けて場所を移動できる人間でよかった。場所を変えられない木はかわいそう」という、神様にはお聞かせできないような(でも、もちろんご存知!)ご都合主義の独り言。
それに引き換え、神社のご神木であったというこの大杉は、千年以上にわたってこの地に根を下ろし、日陰を作り、地下水を蓄え、人々の素朴な信仰を助け、ついには人間に由来する豪雨の犠牲になり、なおかつ、その人間のために気象や災害のデータを提供しようという…。
気高い十字架の木、すべてにまさる尊い木。…何処の森にも見られない。
毎年、復活祭の二日前、聖金曜日に歌われる「十字架賛歌」の一節が頭をよぎりました。
今回の福音箇所でイエス様がおっしゃる「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」というお言葉。
ともすれば、「よし、十字架を背負おう!」と勇み足を踏み、そしてすぐに疲れてしまうか、「私なんて到底無理」と最初から諦めてしまうか。
でも、イエス様のおっしゃられた意味は、置かれた場所で、与えられた人々と共に、倦まず弛まず丁寧に生きていくことなのかもしれません。特にまだまだ活動の制限されている東京郊外の修道院にあって、「今を生きる」ことを十字架と思えるよう、イエス様、どうぞ助けてくださいね。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ マタイ16:21-27
(そのとき、)イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。」