チャオ! チャオ、チャオ!
イタリア語を習う時、だれにでもどこでも使えるこの挨拶は、最初に覚える単語のひとつでしょう。
語源はなんと、「奴隷」を意味するSchiavoだと言われています。
「私はあなたの奴隷です。何でもお申しつけください」が、チャオの元々の意味です。
「わたしはその履物のひもを解く資格もない」。
古代、ご主人様が外出から帰ると、まず奴隷がそのサンダルの皮紐を解き、足を洗った、と言われています。
椅子にどっかと腰かけた主人の前に身を屈めて足を扱う奴隷・・・
今回の福音箇所で、洗礼者ヨハネは、自分は後から来られるイエス様の奴隷にも値しない、と述べているのです。
そしてそのイエス様は、最後の晩餐の席で弟子たちの足を洗った方でした。
つまり、洗礼者ヨハネは、イエス様の奴隷、イエス様は私たち人類の奴隷・・・
では、私たちはだれの奴隷でしょうか?
イエス様によって自由の身とされたのに、ひょっとして、罪や悪、自己主張や不機嫌の奴隷になっていないでしょうか。
私はこのところ、自分がつくづくおかしなものの奴隷である気がして、ちょっと気が滅入っています。
感染の収まらない状況や、それでも始めなくてはならないいくつかの仕事のことを考えると、どこかへ逃げ出したくなっています。
でも、どこかって、どこなのでしょう。
イエス様のところ以外に私のいるところはないのに・・・
明日は、「喜びの主日」とも呼ばれる待降節第三主日。
十字架の下まで御子に従ったマリア様、どうか、私がこの状況から逃げずに御子とともに踏み留まれるよう、お祈りください。 (Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ ヨハネ 1:6-8, 19-28
神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。彼は光ではなく、光について証しをするために来た。
さて、ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。
「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」
遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。