3/7 若い人のための日曜日の聖書 四旬節第三主日 ヨハネ 2:13-25

沈丁花が咲きました。お庭を通り抜ける時、よく香っています。地味ながら香り高い花。私という神殿もこうありたいと切に願っています。

「ヨハネ福音書がなかったら、他の三つの福音書(共観福音書)だけだったら寂しいですよね」。

ある時、神父様がお説教でこうおっしゃいました。

実はヨハネの苦手だった(現在形でもあるのですが)私は、心の中で「そうか」と妙に納得をしてしまいました。

そして、なぜ苦手なのかを意識するようになりました。

コミュニケーションコストが高い、あるいは低いという言葉を聞いたこことがあるでしょう。

いつも思うのですが、イエス様と弟子たちのコミュニケーションは…いつも共に行動していたにも関わらず、最後までコストが非常に高かったように思えます。

そして、イエス様の言葉と弟子をはじめとする登場人物のその理解にもっとも隔たりがあるのが、ヨハネ福音書。というわけで、私がヨハネ福音書を苦手とする理由は、単に私自身もイエス様の言葉を理解できない上に、ヨハネ福音書の中に登場する人たちがしばしばあまりにとんちんかんで、他人事ながらいらいらさせられるからです。

それでも弟子たちは、これだけの分量のイエス様の言葉を覚えていて、書き記し、さらに今回の福音箇所で言われているように、「イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた」。

復活の光に照らされた時、すべてが「ああそうだったのか」と鮮明に理解できた、ということかもしれません。

今回の福音箇所は、神殿の境内が市場のようになっていることを嘆き、実力行使に出る、珍しいイエス様が描かれています。そしてその力を奮われたお体は、神の住まう神殿そのものであるという神秘。イエス様にとってみれば、神殿が金儲けの場にされていることは、ご自分の体の中に何かが巣くっているくらいの感覚だったのかもしれません。

私たちは、どれくらい自分の体を神殿と意識し、自分の体にふさわしく接しているでしょうか。

聖パウロは言います。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。…だから、自分の体で神の栄光を現わしなさい」。(Iコリント6:19-20)

私の体が神様の栄光を現わす器となるとは、どのようなことでしょうか。これを考え祈りながら、この四旬節を過ごしたいと思います。なによりも、私を、心や魂だけでなく、体をもつものとして創造してくださった神様に感謝しながら。      (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ ヨハネ2:13-25

ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」弟子たちは、「あなたの家を思う熱意がわたしを食い尽くす」と書いてあるのを思い出した。ユダヤ人たちはイエスに、「あなたは、こんなことをするからには、どんなしるしをわたしたちに見せるつもりか」と言った。イエスは答えて言われた。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる。」それでユダヤ人たちは、「この神殿は建てるのに四十六年もかかったのに、あなたは三日で建て直すのか」と言った。イエスの言われる神殿とは、御自分の体のことだったのである。イエスが死者の中から復活されたとき、弟子たちは、イエスがこう言われたのを思い出し、聖書とイエスの語られた言葉とを信じた。
イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。