3/14 若い人のための日曜日の聖書 四旬節第四主日 ヨハネ 3:14-21

四旬節中、調布修道院では、日曜日の夕方に十字架の道行きをしています

先日、   TVで10年前の3月22日に、津波被災地の取材をした男性の映像が流れた。

夜だった。彼の立つ大地の後ろは漆黒の闇。ここに、二千世帯があったという。10日の夜までは、二千世帯分の灯火が明かるくきらめいていたことだろう。

私も、漆黒の闇を知っています。2007年から滞在した中米ホンデュラスの田舎を、カナダ人のSr.マルセラの運転する車で走った時のこと。森の中の電気の通っていない村落に向かう舗装もされていない道は、車のライトに照らされたわずかな範囲以外は漆黒の闇でした。いつもは運転しながら陽気にしゃべり続けるSr.マルセラが、この時はハンドルにしがみついて沈黙でした。運転に集中している真剣さが助手席まできりきりと伝わってくるようで、怖かった。

1時間ほど走って辿りついたのは、山の上の共同体の「教会」。

教会とは名ばかりで、柱とトタンの屋根(壁はない)の下に、粗末な祭壇とプラスチックの椅子があるだけ。それでもそこには、自家発電機で灯された裸電球がいくつかぶら下がっていました。

それは、暗闇を走ってきた私の目にはとてもまぶしかった。

そのまぶしさの中で、私は初めて「光と闇」、すなわち「神様の側」と「神様の欠如した側」を対比させるヨハネの言葉を体で理解した気がしました。

こんなにも明るい「光が世に来た」。

そして、「真理を行う者は光の方に来る」。

この時集まった人々の熱気は、闇の中に輝く電灯のように、それはそれは熱く輝いていました。中米のこのような集まりはいつも聖歌で始まります。闇を吹き飛ばすような元気のよい大声の聖歌、祈り、短いお話、それに対するたくさんの質問(ここがもっとも日本と異なるところかも)に答えているうちに、2時間ほどが経ちました。さよならの挨拶を一人ひとりと交わして、私たちは再び闇の中に入っていきました。不思議なことに、帰り道は行きほどの恐怖感はありませんでした。

ただひとつおかしいことがありました。

この集まりは「召命の集い」と銘打たれていたので、Sr.マルセラも私もてっきり女の子か若い女性の集まりだと信じて向かったのですが…集まってきたのは、男の子と若い男性ばかり20人ほどでした。

後で、私たちだけになった時、Sr.マルセラが言いました。「どうして、神父様やブラザーでなく、私たちが呼ばれたのかしら?」

本当に不思議です。

もしかしたら、私に「光と闇」を体験させるためだったのでしょうか。

「真理を行う者は光の方に来る」。

四旬節という「闇」の中で、私の悪をしっかり見つめますから、主よ、どうぞ早く復活してください。

(Sr.斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ ヨハネ3:14-21

(そのとき、イエスはニコデモに言われた。)「モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられねばならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」