イエス様のご像にギョッとした、なんて書くと、「この不信心者!」と叱られそうですね。
一昨年の6月、中米ホンデュラスの黙想の家で黙想する機会がありました。広々として美しい、「黙想の家」というより「黙想の館」でした。ところが、その中の薄暗い小聖堂は、ゲッセマニの園を模して作ってあって、等身大より心持ち小さ目のイエス様が、ひざまずいて泣きながら祈っていらっしゃるのです。そのお顔があまりにも人間的苦渋に満ちていて、私は正直なところ「ギョッとして」しまったのです。そして、とうとうその小聖堂には最後まで足を踏み入れられませんでした。何とも落ち着かなくて、とうてい祈れない。今、このエッセイを書きながら、写真の一枚も撮っておかなかったので、あわててネットで画像を捜しました。
さて、前々回「苦手」と書いたヨハネ福音書。もうひとつの苦手の理由を発見しました。それは、ヨハネの描くイエス様はに、人間味より「神味」の方が強いように思われるからです。
第一、受難の部分にゲッセマニの園の祈りのシーンがありません。
このもっとも人間的で私たちの共感を誘う部分、「ああイエス様、ごめんなさい。あなたは、私の罪のためにこんなに苦しんでくださるのですね」と私たちが素直に悔い改められる場面は、マタイ、マルコ、ルカ(この三つを共観福音書と呼びます)にしか描かれていないのです。
そして、その代わりであるかのように、ヨハネに描かれるイエス様は、十字架こそ栄光の時であると語ります。
「今、わたしは心騒ぐ」。
これが、共観福音書の、「悲しみもだえ」「ひどく恐れてもだえ」「汗が血の滴るように地面に落ちた」「私は死ぬばかりに悲しい」といった表現に代わる、ヨハネの唯一の文です。
共感福音書は、イエス様が弟子たちにお見せになった外面を描き、ヨハネは苦しみにも関わらず、深く静まっているイエス様を描いている、と受け取ることもできるでしょう。
そして、もうひとつとても興味深いことがあります。
今回の福音箇所は、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼むギリシア人たちがいた、と始まります。
ところがこのギリシア人たち、それからどこへ行ってしまったのでしょう。一向に話の続きに登場しないのです。そしてイエス様の有名な「一粒の麦」の話をはさんで、「…わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」。
つまり、ギリシア人たちはやってきて、そして、イエス様の十字架上の死によって、はじめてイエス様に引き寄せられるのです。
このギリシア人を、二千年後の私たちと読み替えることができるでしょう。イエス様のもとに引き寄せられることを想像すると、とてもわくわくしませんか。
後2週間でご復活!
引き寄せられる時が近づいていることに感謝!
(Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ ヨハネ12:20-33
さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。