6/20 若い人のための日曜日の聖書 年間第12主日  マルコ 4:35-41

「あまりにしばしば私たちは、神は私たちの長所、優れているところだけを当てにしていると考えてしまいますが、実際には、神の計画のほとんどは、私たちの弱さを通して、また弱さがあるからこそ。実現されるのです」。

今日、修道会関係の小さなグループで、教皇フランシスコが昨年の12月に出された『父の心で』という小冊子を読んで分かち合いをしました。

私の心に響いたのは冒頭の箇所です。

私たちは、たとえば人を選ぶ時、ついついその人の長所を頼りに選びがちです。また自分の長所は、ひけらかさないまでも人から指摘されたら嬉しいし、それに頼ろうとしてしまいます。

でも神様は、私たちの弱さを通して導いてくださる、というのです。おそらく場合によっては私たちの悪を通してさえ。

そうであれば、私たちにできることはただひとつ。

今回の福音箇所の弟子たちのように、「イエス様―っ、溺れたくないよー、眠ってないで助けてくださーい」と嵐の中で叫ぶことだけです。

「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」

いいえ、イエス様は弟子たちを叱っているのではありません。

イエス様は私たちの恐怖をご存知の上で、こうおっしゃったのです。

ちょうど、泣いている小さな子どもに「どうして泣いているの。よしよし、もう大丈夫でしょ」と声をかけるように。

「苦しい時の神頼み」という言葉は、「必要な時だけでなく、普段から神様を頼りなさい」という戒めを込めた表現なのでしょうし、普段から神様を頼っていなければ、いざという時、何か別のもの、私たちを助けることのできないものに助けを求めてしまうかもしれません。イエス様を裏切った後のユダがこの例ですね。

神様の前で、「いい格好」をしないこと。必要な時、臆面もなく叫ぶこと。

きっと、神様の御計画である「助け」は思いがけない方法でやってくると思います。

(Sr.斉藤雅代)

≪聖書箇所≫ マルコ 4:35-41

その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。