「恋人の愛」。
私たちの修道会の創立者聖マルグリット・ブールジョワは、手記の中にこんな言葉を残しています。
「神のみ心に触れるのは恋人の愛だけであり、この愛に限り、何ひとつ拒まれる事はありません。・・・恋人の愛は真の愛です。この愛は稀にしか見られません。と言うのは、善も悪も何ものも消すことのできない愛、愛するもののために喜んで生命を捧げる愛だからです。この愛は自分の利益や必要を顧みません。病気にも健康にも無関心ですし、幸運と不運、死と生命、慰めと無味乾燥など、そんなことはどうでもよいのです」。
今回の福音箇所、「姦通の女」とイエス様と、律法学者たちやファリサイ派の人々が織りなすスキットのようなシーンを祈っていたら、ふと「恋人の愛」という言葉が浮かんできました。
いつも気になるのは、この女性のお相手はどこに消えてしまったのか、ということです。「姦通」というからには、男女のいずれかに結婚相手がいて、それを知っての上での関係ということでしょう。それでも関係したいほどにこの二人は惹かれ合っていた、ということでしょう。それなのに、律法学者たちやファリサイ派の人々の冷たい手に女性を残したまま、男性は・・・この物語に登場しません。
「もう罪を犯してはならない」。
この女性がそのように生きられたかどうか、福音史家は例によって物語の先を私たちに委ねています。
私は祈りの中で想像します。
この女性は、姦通の罪を犯してまで共にいたい、と恋焦がれた男性を卒業し、赦しと憐みの神様に目覚め、今度こそ本当に「恋人の愛」で神と人を愛する人になったのではないかと。
マルグリットの語る「恋人の愛」は、聖イグナチオ・デ・ロヨラの『霊操』23番の不偏心を思い起こさせます。
「すべての被造物に対して、偏らない心を持たなければならない。従って私たちの方からは、病気よりも健康を、貧しさよりも富を、不名誉よりも名誉を、短命よりも長寿などを欲することなく、ただ私たちが造られた目的へよりよく導いてくれるものだけを望み、選ぶべきである。」
時代的に、マルグリットが『霊操』を読んでいても不思議ではありませんし、彼女が不偏心を書き換えたら、「恋人の愛」になったと想像することもできます。
1世紀と少しの時間を隔てて、2人の聖人が目指した生き方に私たちも招かれています。
主よ、どうか「恋人の愛」であなたを愛せますように、この四旬節の後半、私を導いてください。
※画像は修道院の桜づくし。
≪聖書箇所≫ ヨハネ 8:1-11
(そのとき、)イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」