「目を覚ましていなさい」。
一年を通して主日のごミサに与っていると、何回も何回も、イエス様からこのように呼びかけられていることに気づきます。
今頃、つまり夏の終わり、待降節の頃、そして四旬節にも、さらには聖週間のゲッセマニの園でも。
もちろん、物理的に目を覚ましている、睡眠時間を少なくすることが求められているわけではありません。まして、ゲームにはまったリ、SNSに夢中になって睡眠時間を削っている状態を、イエス様が推奨されるはずがありません。むしろ、いつも目を覚ましているためには、十分な睡眠をとった方がよいのです。
そうして、何に対して目を覚ましているのでしょう。
今回の福音箇所の僕たちのように、主であるイエス様の訪れに敏感であるために。なぜなら、私の中にも私の周りの人の中にもいらっしゃるイエス様は、私に気付いてほしくてあらゆるきっかけを利用してくださっているのですから。
私の心の動き、周りの人の言葉、あの花や風、空、星・・・また、猛暑や雷や驟雨や洪水さえも利用して。
私の中にいらして、私に「帰って来よう」とされるイエス様に、常に敏感でありたいと願います。
だれよりも目覚めていらして、天使の訪れにすぐに気づいたマリア様、どうか、目覚めていることを私にも教えてください。
≪聖書箇所≫ ルカ 12:32-48
(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)
《「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。自分の持ち物を売り払って施しなさい。擦り切れることのない財布を作り、尽きることのない富を天に積みなさい。そこは、盗人も近寄らず、虫も食い荒らさない。あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」》
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸をたたくとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
《そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」》