8/14 若い人のための日曜日の聖書 年間第20主日 ルカ 12:49-53

昔の無原罪聖母修道院の庭

この7月、私は上石神井のイエズス会無原罪聖母修道院で八日間の黙想をしました。そして、8月末にもう一度、仕事で同じ修道院に泊まることになっています。私にとってここが、古い建物の時から、一番落ち着いて祈りのできる場所であるのは、2つの偶然が重なっているせいかもしれないと、最近になって知りました。

古い無原罪聖母修道院は、私が修道生活の第一歩を始めた福島のノートルダム修道院と同じ、チェコの建築家の手になるもの(これが最近知ったことです)。そして不思議なことに、現在の無原罪聖母修道院と私の暮らす調布のノートルダム修道院とが、これまた同じ設計者のものであること。

今回の福音箇所を読んで、この無原罪聖母修道院の古い建物を思い出しました。広い広い畳敷の聖堂があって、そこに木の切株の上に、同じく記を寸胴に切ってくりぬいたような野趣のある聖櫃があって、そのお隣に毛筆で「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」と書かれた額がありました。聖櫃は、ずっと小さくなった畳敷の「瞑想の間」に今も置かれていますので、この額も、どこかに飾られているのかもしれません。

この額の画像がないかとネットで検索したのですが、残念ながらネットでも探し出せませんでした。

この聖句は、額の大胆な筆遣いの字とともに、まだ若かった私の魂に刻みつけられたような気がします。振り返ってみると、畳の上に正座して祈るのが好きな私が修道生活を決心したのも、初誓願や有期誓願期の黙想もほとんどがこの聖櫃と額の前でしたから。

そのころから、イエス様は、「一緒に火を投じよう」、と私に呼びかけ続けてこられたのです。さらに、そのように大切なただ一つのことを選ぼうとするとき、この世のどんなことも、家族の縁さえ空しいと。だけど、いったん手放したものは、必ず別の形で戻ってくると。

だって、同じルカの18章には、「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、 この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」とありますもの。

すごいと思いませんか?この世ですでに何倍もの報いをいただけるうえに、永遠の命までいただけるなんて!

確かに私は形の上でいったん母を捨てました。

私が修道院に入った時、母は今の私より若くて健康でした。だから親不幸な娘は、「神様にお仕えするためだから」と大手を振って家を出ました。

母は嘆きながらも「神様にはかなわない」と言いました。

今、その母は修道院の近くの施設に入っています。母への郵便物が私の手元にきちんと届くように、母の現住所は何年も前から「ノートルダム修道院」です。これほどの報いがあるでしょうか。私はすでに何十倍、何百倍もの報いをいただきました。その上に、永遠の命までいただけるとしたら、イエス様と一緒に、この世に火を投じることに熱心にならざるをえません。

イエス様、感謝です。どうか私をもう一度初心に立ち戻らせてください。私自身の過ちによって、生ぬるい修道生活に陥らないよう、いつも私を導いてください。

 

≪聖書箇所≫ ルカ 12:49-53

(そのとき、イエスは弟子たちに言われた。)「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ。今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。
父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる。」