8/21 若い人のための日曜日の聖書 年間第21主日 ルカ 13:22-30

秋空のもとの修道院。今年は、空も、雑草も、虫の音も、1か月ちかく早いような気がします。

学生時代、授業開始時間に講義室のドアが施錠される科目がありました。確か、45分のところでいったんドアが開いて、「遅刻」として入場が許された、と記憶しています。

1時間目に始まる4学年合同の必修授業でしたから、そうでもしないと、収集がつかなかったのでしょう。

私は、遅刻にはあまり縁がない方でしたが、それでも何回かは駅から走りました。その時のドキドキ感を、今回の福音箇所を読んでいてふと思い出しました。

イエス様は「救われる者は少ないのでしょうか」という問いに対して、少ないとも多いとも答えず、「狭い戸口から入るように努めなさい」とおっしゃいます。何を努力するのでしょうか。

その答えは、マタイの並行箇所(同じテーマを扱う箇所)にあるような気がします。

「狭い門から入りなさい。・・・それを見いだす者は少ない」(マタイ7:13-14)。

見いだせなければ、入ろうとしても入れないでしょう。

そして見いだすためには、一緒にテーブルを囲んだ仲であってもだめ、教えを受けたとしてもだめ…

どんな体験があったとしても、内面化が足りないなら、狭い戸口も広い門も見いだしようがない・・・私にはそんなふうに響いてきました。

信仰とは、みことばが自分の中に本当に根を下ろして、みことばがその人の行動に染みだしてくる状態なのだと思います。

FBで友達になっている教え子に、つい先日「お誕生日おめでとう」の短いメッセージを送ったら、こんな返信がきました。

「先生の授業は不真面目に受けていましたが、6年間宗教を学んだことはひとつも無駄ではありませんでした。聖書は今も生きる学びがあります」。

当時のお粗末な授業を思い出すと恥じ入るばかりですが、社会の中核で生きていらっしゃるこの方の姿勢に少しでもみことばが反映されているなら、こんなにうれしいことはありません。

神に感謝!

 

≪聖書箇所≫ ルカ 13:22-30

(そのとき、)イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」