8月末の4日間、上石神井の黙想の家で、様々な修道会の若いシスターたちの研修会のお手伝いをしました。日本で既にシスターとして活動しいている方々ですが、日本人はむしろ少なく、ヴェトナム、フィリピン、ミャンマー、東チモール出身という方々の方が多かったです。長い方は十数年日本で生活していらして、みなさん日本語が達者です。講師の神父様はインド人のサリ・アガスティン神父様(イエズス会)でしたが、これまた、私たちにも聞き取れないくらい早口でお話する方でした。
日本のカトリック教会の近い将来の姿を垣間見た気がしました。
そして、どこの国の出身であろうと、若いシスターたちの、修道生活における喜びや苦しみは、30年前の私の世代と、そんなに変わっていないことも発見しました。
今回の福音箇所で、イエス様はご自分の弟子になるとはどういうことかを教えてくださっています。
一つひとつの条件は厳しいです。そして…
「もし・・・ならば、私の弟子ではありえない」。
エルサレムに向かう旅の途上で、イエス様はどのような気持ちでこの言葉を繰り返したのでしょうか。
私の祈りの中で、この言葉が、裏返しに響いてきました。
「もし親族や自分の命を第一にしないなら、もし自分の十字架を背負って私について来るなら、もし自分の持物より神の国に宝を蓄えることを優先するなら・・・あなたこそ、私の弟子といえるよ」。
イエス様、ひとつもできていない私です。たぶん、どんなに努力しても私の力では永遠にできません。
だから、恵みをください。そして、どうか「もし」と言い続けてください。
私は、あなたの弟子であり続けたいのです。
≪聖書箇所≫ ルカ 14:25-33
(そのとき、)大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」