「年を取って、少しずつ天国に知り合いが増えると、死ぬことが怖くなくなる」。
ある友人が言いました。私もまったく同じことを考えていたところでした。
このエッセイのタイトルの「若い人」には想像もつかない話かもしれませんね。
もちろん、積極的に「死にたい」と思っているわけではありません。この世でまだまだ神様にお仕えできそうですが、それでも「いつでもあなたのもっと近くに呼び寄せてください」と思っています。
そして、今回の福音箇所の「天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子」という表現には心惹かれます。私の洗礼名が天使の名、ガブリエラであることもあって、やっと「天使に等しくなれる」というのは、素敵な感じがします。
サドカイ派閥の人たちは、ファリサイ派とは対立していたそうですが、イエス様に対する態度は同じでした。すなわち、いつもイエス様をひっかけよう、揚げ足を取ろう、とねらっていたのです。
イエス様は、彼らに答えた上に、現代まで私たちにメッセージを残してくださっています。
アブラハム、イサク、ヤコブというユダヤ教徒の偉大な先祖たち(日本人にとっては、卑弥呼か神武天皇に相当するでしょうか)が復活に与っているからこそ、彼らの名を付加して呼ばれる「あの、出エジプトさせてくださった神様」が、まず初めにイエス様を、ついで私たちを復活させてくださる神様です、と。彼らが、復活に与ることによって、生きている者として、神様の名を装飾し限定していることが、何よりも復活という出来事が確かにある証拠だ、と。
聖パウロの言葉を借りましょう。「実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人々の初穂となられました」。(Iコリント15:20)
ナザレのイエス様に比べると、復活のイエス様は、ちょっと近寄りがたいですが、同じく私たちを限りなく愛してくださっていることを信じて、イエス様のみ跡をたどりたいです。私自身の死と復活の日まで。
≪聖書箇所≫ ルカ 20:27-38
(そのとき、)復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。
《「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。次男、三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。最後にその女も死にました。すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」》
イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」