「そこで苦しんでいるあなたは、だれですか?」
私の若い友人の看護師さんの話です。
最初の職場がカトリック系の病院で、初めて、十字架に釘付けられたイエス様のご像を見た時、「どうしてこんなにむごたらしいものが病院に掛かっているのだろう」と思ったのだそうです。
ところが、毎日そのご像を眺めているうちに、「そこで苦しんでいるあなたは、だれですか?」という問いが湧いてきて・・・やがて彼女は洗礼を受け、今、素晴らしい働きをしています。
イエス様の十字架上のお姿には、人を惹きつけ、とらえて離さない何かがあるのでしょう。
今回の「犯罪人」の一人も同じ。
おそらくイエス様についてほとんど知らないか、知っていたとしても初対面であったでしょうに、自らの罪を告白し、信仰を表して救いを約束されます。
その瞬間に、彼の人生のすべてが無価値になり、同時に天が開かれた・・・「幸せな人」と言えるでしょう。
典礼暦の1年の終わりにあたって、こういうストレートな信仰を願いたいと心から思います。
さて、来週から待降節。そして、日本のカトリック教会にとっては、バチカン公会議以来の典礼の変更、ミサのことばが変わるという大きな変化を体験します。
受洗前に教会に通い始めてから数えきれないほど弾いたミサ曲。これからも歌ってよいそうですが、当面は新しい言葉のミサ曲になれるためにいったん「お蔵入り」にする予定です。
よく使ったためにボロボロになってきていて、「一生使えるかしら」と心配していた典礼聖歌集の合本が出版される前の「歌ミサの式次第」は、もう絶対に使うことがありません。
若い時は威勢よく譜めくりしながら引いていた栄光の賛歌は、中年を過ぎてから、譜めくりしなくていいように切り貼りしました・・・
みな愛おしいので、記念に写真を撮りました。
きっと、日本全国のカトリック教会のオルガニストが、今、同様の感慨に浸っていることでしょう。
みなさん、新しいミサ曲で、ごミサが会衆の方々にとっていっそうよいものとなるよう、共に頑張りましょう!
≪聖書箇所≫ ルカ 23:5-19
(そのとき、議員たちはイエスを)あざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。
十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。