若い時の私の夢は、カトリックの信者さんと結婚して、子どもをたくさん産んで、「一族郎党を引き連れて、毎日曜日教会に行く」というものでした。私の所属する小教区の教会にシスターたちがいなかったこともあって、シスターも修道生活も縁遠いものでした。
なぜか、私を引き受けてくださった「お相手」は、カトリックの信者というより「ユダヤ教徒」。そして、今や私は高齢化にのみ貢献(?)する年齢になりながら、やはり人口減に悩んでいる修道会の中で、あくせくとしています。
少子化、人口減、人手不足…
この1年、コロナが5類に移行してから(私の意識としては)さらにクローズアップされるようになった現代日本の課題。
これらの最適解はどこにあるのでしょうか?
女性が安心して子どもを産めるように、様々な法的対策や給付金や手当などの経済的基盤を提供すれば、よいのでしょうか?
そう思うと、「安心して」どころか足りないものだらけの中でイエス様を産んでくださったマリア様に、ただただ感謝するしかありません。
今年の暮れから元旦にかけて、カレンダーの関係で、聖家族の主日と神の母の祭日が連続します。福音書の箇所としては、元旦の方を先に読むと、ちょうど物語が続きます。登場人物の様々な声―マリア様とヨセフ様の語らい、羊飼いの賛美、エルサレム神殿のざわめき、シメオンやアンナの預言―を、生まれたばかりのイエス様は、子守歌のように聞いていらしたに違いありません。
私たちは、イエス様にどのような子守歌をお聞かせすることができるでしょうか。戦争の砲火や傷付いた人の悲鳴でなく、平和な賛歌をお聞かせしたいものです。
皆様、新年おめでとうございます。今年こそ平和な年になるように、共に祈りましょう。
≪聖書箇所≫ ルカ 2:16-40
(そのとき、羊飼いたちは)そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。その光景を見て、彼らは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。
モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。
それは主の律法に、「初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される」と書いてあるからである。また、主の律法に言われているとおりに、山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げるためであった。
そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。
「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目で あなたの救いを見たからです。これは万民のために 整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです。」
父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」
また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。
親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。