3.11の夜、私が当時住んでいた福島市野田町の修道院は、桜の聖母学院中高から下校できなくなった生徒20名と先生方3名を受け入れました。
普段5人で住んでいたところに、みんなで肩を寄せ合って停電の暗闇の中で、余震の続く不安な一夜を過ごしました。
生徒たちは、遅くとも翌々日には保護者が迎えに来て帰宅できましたが、彼女たちと入れ替わりに、一人のシスターのご親戚の人たちが原発の事故を避けて避難してきました。
三家族、大人6人と子どもたち、そして犬一匹。
その中に、アンパンマンの大好きな女の子がいました。
自分の背丈とほとんど変わらないアンパンマンのぬいぐるみをおんぶして、よちよち歩いていた姿が忘れられません。
アンパンマンのどこが彼女の、あるいは子どもたちの気に入っているのでしょう。
作者であるやなせたかしさんは、キリスト者ではないけれど、非常にキリスト教に近い感覚を持った方で、次のようなことを述べています。
人生で一番、何がつらいか。「食べられない」ってことなんだよね。だから「正義の味方」だったらね、まず、食べさせること。飢えを 助ける。でも戦後ずっと、スーパーマンとかウルトラマンとか、いっぱいヒーローは出てきたけど、みんな飢えている人を助けないんですね。だから「それをやんなくちゃ」という思いがずーっとあって、結局、アンパンマンにつながっていくんです。(毎日新聞2006年1月3日夢の新春対談アンパンマンと毎日かあさんより)
ほんとうの正義というものは、けっしてかっこうのいいものではないし、そしてそのためにかならず自分も深く傷つくものです。(第1作『あんぱんまん』あとがきより)。
子どもたちは案外本能的に、このアンパンマンの在り方に共鳴しているのかもしれません。
ヨハネの福音書の中でイエス様はご自分を様々な言葉で既定されますが、そのひとつが「わたしは、天から降って来た生きたパン」です。
パンは食べられるために存在する。
食べられるために、イエス様は十字架にかけられました。
後世に描かれた絵画や彫刻の十字架像はかっこいいけれど、実際にゴルゴタの丘で起こったことは、かっこよさとは反対に、みじめさの極みでした。神の正義を貫いたがためにです。
さて、あなたはアンパンマンに育てられた世代ですか?
もしそうだったら、この正義を貫かれたイエス様に倣うために、あなたもアンパンマンの行動をを思い起こしてみませんか。
余談ですが、私が今勤めている図書館では、「蔵書方針に合わない」ということでアンパンマンの絵本を所蔵していません。
初期の頃の「残酷だ」という批判を受けての決定かもしれません。
ちょっと悲しいな、と思います。
残酷さより、アンパンマンの「そのためにかならず自分も深く傷つく」自己犠牲の方を見てほしいです。
(Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ ヨハネ6:51-58
(そのとき、イエスはユダヤ人たちに言われた。)「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」