もしかしたら、毎年この頃に同じことを書いているかもしれません。
2019年の春、修道院建築中に、一時的に土を動かしたいわば盛土の上に、ヒヤシンスが1輪咲きました。
若い現場監督さんが、「かわいそうだから移してほしい」とおっしゃるので、私たちはそれを一旦植木鉢に移し、さらに残念ながらあまり日当たりは良くないのですが、小さなスペースに地植えにしました。
そうしたら、その場で毎年このヒヤシンスが咲くのです。
ところが今年は、いつまでたっても芽が出ませんでした。
とうとうダメになってしまったか、と思いながら、それでもその近くを通るたびに覗き込んでいたところ、例年よりかなり遅い時期に芽が出て、今は蕾を持っています。
スマホのアルバムで確認したら、去年は3月19日に咲きました。
今年は19日は無理そうな感じです。
もしかしたら桜より遅いかもしれません。
春は、1年中で最も小さな命のことが気にかかる季節です。
神様が私たちの命をこんなふうに気にかけて、心配しながら見守ってもってくださっているんだなぁと実感しました。
1粒の麦が死ななければ・・・
神様は私たちの小さな命のために、イエス様の命を下さいました。
そして、この有名な「一粒の麦」に続けて、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」とおっしゃいます。
イエス様、あなたに従って、あなたと共に死ぬことがどのようなことであるのか、私に教えてください。ご受難が刻一刻と迫っているこの時に。
≪聖書箇所≫ ヨハネ12:20-33
さて、祭りのとき礼拝するためにエルサレムに上って来た人々の中に、何人かのギリシア人がいた。彼らは、ガリラヤのベトサイダ出身のフィリポのもとへ来て、「お願いです。イエスにお目にかかりたいのです」と頼んだ。フィリポは行ってアンデレに話し、アンデレとフィリポは行って、イエスに話した。イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。父よ、御名の栄光を現してください。」すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。再び栄光を現そう。」そばにいた群衆は、これを聞いて、「雷が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためではなく、あなたがたのためだ。今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。