2017年7/16 若い人のための日曜日の聖書  年間第15主日  マタイ13:1-23

炎天下の「預かり保育」で種まき中のSr.古山

「だれかしら」と思いながらFacebookの友リクを承認した方からこんなメッセージが来ました。

「シスター、お元気でしょうか? 承認ありがとうございます。

SS短大を卒業して20年になります。

シスターの方々にお会いできたことは私にとって人生の宝です」。

20年前、というとどうも私が短大にいた時期と合いません。

Messengerの方でその旨連絡すると、なんと20年前の短大のパンフレットの画像と共に、以下のようなメッセージが来ました。

「高校の時にいただいたパンフレットです。雅代先生ですよね?

ずっと見ていたものだから、習った気でいました」。

 

先月下旬から、このような嬉しい「偶然の出会い」が、私のまわりでいくつかありました。

この春つくばに新しくできた修道院のシスター都成は、つくば大学構内を散策中に、桜の聖母学院高校を卒業してつくばの学生になったばかりのIさんとばったり出会いました。

つくばの学生数は一万五千人だそうですから、1/15000の確率(?!)の出会い、とシスター都成は大喜び。

同じ頃、私は四谷駅で卒業生とばったり。

四谷駅の一日の平均乗降者数は十五万人ほどですので、1/150000の確率です。

 

私は、以前から「すべての出来事、すべての出会いは偶然ではない。神様からのプレゼント」と考え、生徒たちにもそう言ってきました。

これを覚えていてくれたI先生(明治学園での教え子であり、桜の聖母学院の元同僚)が、ある時生徒たちの前でこれを繰り返してくださったのはとても嬉しかったです。

 

そして、「偶然」が起こるためには、種まきが必要なのです。

できるだけたくさん種をまいておくと、わずかであっても収穫があります。

「シスターの方々にお会いできたことは私にとって人生の宝です」。

このような言葉は、神様から私たちへの収穫というプレゼントです。

もちろん、中高生という難しい時期に出会った場合、すべての卒業生がこのように感じてくださるとは限りません。

祈って、考え抜いての生徒指導であっても、「あんなことを言わなきゃよかった」「あそこまで追い詰めなければよかった」という苦い後悔は限りなくあります。

言われた方が深く傷付いていることは、想像に難くありません。

 

「私、ナニゲに先生のこと好きだった」。

これは、ぶつかりにぶつかった生徒の卒業数年後の言葉です。

これも、神様からの収穫。

「好きだった」と言えるようになるまで、時間が必要だったのでしょう。

 

さて、イエス様は、「私という貧しい土壌」になんとたくさんの種をまいてくださっていることでしょう。

少しでも収穫の多い土壌になって、神様に喜んでいただきたいものです。

そして、貧しい土壌での収穫ではありますが、私も再び豊かにまきたいと思っています。 (Sr.斉藤雅代)

 

≪聖書箇所≫ マタイ13:1-23

その日、イエスは家を出て、湖のほとりに座っておられた。すると、大勢の群衆がそばに集まって来たので、イエスは舟に乗って腰を下ろされた。群衆は皆岸辺に立っていた。

イエスはたとえを用いて彼らに多くのことを語られた。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の間に落ち、茨が伸びてそれをふさいでしまった。ところが、ほかの種は、良い土地に落ち、実を結んで、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍にもなった。耳のある者は聞きなさい。」弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」