「何をしたいのか分かりません」
「大学には行きたいけれどどんな大学、学部を選んだらいいのか分からないんです」
「大学って、行かなきゃだめですか? 親は行けと言うんですけど」
教師をしていた頃、私は生徒たちと面談するのが好きでした。
時間がある時は、自分のクラスの生徒だけでなく、部活の生徒全員とも面談していました。
生徒にとってははなはだ迷惑な話だったかもしれません。
ある時、明治学園吹奏楽部の生徒から「まだ担任とは面談していないのに、先生とは2回目です」と言われたことがありました。
一対一で話すと、よく知っていると思っている生徒であってもさらに色々な発見があって、そこから、最初に挙げたような「困った質問」を共に考えていくきっかけができました。
実を言えば私は幸せな人間で、途中で迷いはあったものの、かなり小さい時に「この大学」と心に決めたので、あとはそこに向かって準備するだけでした。
しかし、実にたくさんの生徒が上のような悩みをもち、どのように考えたらよいのか分からないままでいます。
私はよく「何をしている時が一番幸せなの?」と尋ねました。
「眠っている時」「何もしない時」と答える生徒がいます。
新米教師の時はこのような答えに腹立たしい思いでしたが、だんだんこの答えすら出発点になると思えるようになりました。
「じゃあ、どうしてそうなのかに興味はある?」
最近は、脳科学者たちが「ぼんやりしている時」がいかに重要かを説くようになってきています。
ですから、このような答えから脳科学や心理学に目を開かせることも可能でしょう。
さて、今回の福音で、水の上を歩くイエスを見たペトロは、「私も歩かせてください」と頼みます。
そして歩き始めるわけですが、ふと恐怖に襲われ沈みかけます。
そして「先生、助けてください」。
このペトロのエピソードは、私たちの人生のようです。
イエス様のように生きたいと願い、歩み始めるのですが、「強風」が吹けば「沈みそうだ」と思い、実際そうなります。
大切なのは次の瞬間で、ペトロが「助けてください」とイエス様に向かって悲鳴をあげたことです。
「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」というイエス様の言葉は、叱責ではありません。
お母さんが泣いている赤ちゃんに「どうしたの、どうして泣いているの」と話かける時、この「どうして」は泣いていることの根拠を問いかけるのではなく、共感です。
だから、「よしよし、もう大丈夫よ」と続くのです。
私たちも大いに「助けてください」と悲鳴をあげましょう。
もちろん神様だけでなく、あなたが信頼できる人にでもいいです。
たとえ誰もあなたの相談にのってくれなかったとしても、神様は悩んでいるあなたに共感してくださっています。
これを私は確信しています。(Sr.斉藤雅代)
≪聖書箇所≫ マタイ14:22-33
それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた。群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた。ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた。夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」すると、ペトロが答えた。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」イエスが「来なさい」と言われたので、ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ。 しかし、強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、「主よ、助けてください」と叫んだ。イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」と言われた。そして、二人が舟に乗り込むと、風は静まった。舟の中にいた人たちは、「本当に、あなたは神の子です」と言ってイエスを拝んだ。